子育てコラム
慣用句の中で、
「上や下への大騒ぎ」と使うと答えた人は59%。
「そうは問屋が許さない」と使うと答えた人は24%だったそうです。
上記、二つ、正しくは
「上を下への大騒ぎ」
「そうは問屋が卸さない」
です。
では、みなさんに質問です。
「役不足」という言葉は、どんな意味でしょうか?
正解は、「本人の力量に対し、役目が軽すぎる」、です。
もう一問。「気が置けない」の意味は?
正解は、「相手に遠慮をしなくてもよい」、です。
いかがでしたか?失礼ながら勘違いをされていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ことわざなども、よく会話の中に出てきますが、私もよく使う「三つ子の魂、百まで」。これは正しいと考えています。
しかし、「好きこそ ものの 上手なれ」ということわざがありますね。でも、「へたの 横好き」というものもあります。両者はまったく反対の意味を表しています。
以前に「問題な日本語」という本がよく読まれましたね。今の若者の間違った言葉の用例が多く紹介されていました。
日本語はとても難しい。そして時代に応じて変わっていくものですが、子どもたちには「正しい」日本語を伝えていきたいものです。
たとえば、デッサンの基本もできていないのに、キャンバスに絵の具を塗りたくり、「僕の作品です」と、画商に売りに行ってもまず相手にされないことでしょう。もちろん、よほどの天才を除いてですが、そんな天才はほとんど現れません。やはり、基本が大切になってくるのです。
そして、その上で、もちろん個性は、人それぞれによって違ってきます。子どもたちでは、楽器を演奏するのが得意な子、絵を描くのが好きな子、積み木で上手に遊ぶ子、走るのが速い子、思いやりの心を人一倍持った子、上手に手伝いのできる子、などなど。
有名な話ですのでみなさん、ごぞんじかと思いますが、ある学校で、運動会の時、徒競走でスタートの時、竹の棒を持って走り出す、ということが行われていました。みんなが、平等にゴールするため、差別をなくすためだそうです。「ヨーイ・ドン!」で、一直線で走り出し、仲良く一緒にゴールする。
これはおかしなことだ、と思うのです。前述のように、個性にはいろいろなものがある。走るのが速い子もいる、遅い子もいる。それは、差別などではありません。第一、そのような徒競走を見ていて楽しいわけがありません。
社会は、やはり「機会の平等・結果の不平等」で成り立っているものなのです。子どもたちにももちろん機会を平等に与えなければならない。しかし、個性はさまざまです。出てくる結果もさまざまでしょう。よい個性は伸ばし、悪いものはおさえていく、それが教育であり、子育てなのです。
入学していきなり明治神宮に放り込まれ、早朝からふんどし一丁で、禊(みそぎ)と称する水浴びで身を清め、社殿の雑巾がけ、それからおかゆの朝食、講義、作法の練習など、大学時代には比較的のんびりと暮らしていた私にとって、まさにカルチャーショックのような「修行」でした。
そのときうけた講義の中で、次の一句が今でも心に残っています。
立ち向かう/人の姿は鏡なり/おのが姿をうつしてもみよ
立ち向かう人の心の中には、自分自身の心が映っているのだ。だから、素直でやさしい心で対すると、相手にもそれが伝わり、やさしい心と物腰で対してくださる。しかし、険悪で嫌味な心で接すると相手もまた、険悪な心と態度で相対するものだ、というような意味です。
私たちは、さまざまな人との出会いの中で生きています。自分の気の合うタイプの人の時は、すぐに打ち解けることができるものです。
しかし、「苦手なタイプだな」「いやな人だな」と感じる人は、おのずと接するのを避けたりするものでしょう。
でも、そのような人とも前述の、「おのが姿の鏡」だ、という考えで接してみる、このこともとても大切なことだと思うのです。
自分に合う人だけが回りにいるわけではありません。時には合わないと思われる人とお付き合いをする必要も出てくる、こんなことも子どもたちにうまく伝えていきたいですね。
家族がいて、当たり前、友だちがいてあたりまえ。でも、考えてみると、当たり前のように思っていることに、本当に感謝しなければならないことが多いことに、実は気づくのです。
私たちは、生きるためには空気を吸わなければならない。でも、普段はそれを意識していません。
地震などの自然災害にあったときにはおそらく痛感することなのでしょうが、食べ物ももちろん、水もなければ生きていけない。
空気や水や食べ物などだけではなく、私たちの身の回りには、家族や友だちをはじめ、たくさんの人たちがいて、私たちの生活を支えてくださっています。「お金を払って」、という資本主義の世の中だからでしょうが、本当は、どんなことも「してもらって」生きているのです。
環境問題も最近取り上げられることが多くなりましたが、自然の力で生かされていることが本当はとても大切で、私たちが今、気づかなければならない最も大事なことなのかも知れません。
地球温暖化、CO2の排出規制、などなど、たくさんのことが問題視されています。日本に暮らす私たちには、まだまだ「対岸の火事」のようにしか、とらえられない面があるのかも知れませんが、地球規模では大変に深刻な問題が起こってきています。海水の水面がこれから上がってきたら、オゾン・ホールがこれ以上、広がったら。
目に見えない、そして普段意識も感謝もしない「空気」に対しても感謝の気持ちを持つ。今からとても大切なことになるのかも知れません。
おはようございます、こんにちは、こんばんは、などの一般的な挨拶、それから、ありがとう、などのお礼の言葉も含まれます。
食事をするときの「いただきます」もこの挨拶に、もちろん含まれます。
幼稚園では給食などの食事を食べるとき、「いただきます」といってから食べます。ご家庭でもそうされていることと思います。
ところが、先日、こんな話を耳にして驚きました。
ある小学校で、
「給食費を払っているのに、なぜ『いただきます』といわせなければならないのか」
という保護者がいたそうです。費用を払っているのだから、食べて当然ということなのでしょうか?これは違うと思いませんか?
いただきますという言葉、これは、食べ物、つまりお米や野菜や肉などの食材、それらの命をいただいているということなのです。
その命をいただいて人間は生きていくことができるのです。
だから、食べ物に対する感謝の気持ちを込めて、「いただきます」と言ってから食べ、いただいたあとは「ごちそうさまでした」と挨拶をするのでしょう。
生きとし生けるものに対する感謝の心、命への尊厳の心、これを忘れてはいけません。森羅万象すべてのものの「おかげさま」で人間は生かされているのです。
食べ物に対しても、「いただきます」と感謝の心を込めてその命をいただく。
小さなことかも知れませんが、とても大切なことだと思うのです。
以前、長野県の白百合幼稚園に、橋上先生と一緒に見学にうかがった折、園長先生から聞かせていただいた言葉です。
幼稚園によっては、できるだけ保護者に負担をかけないようにすることによって入園希望者を募っていらっしゃるところもある。
言葉が適切ではない、とご指摘を受けるかも知れませんが、私はいつもこういうのです。「幼稚園は断じて『コインロッカー』ではない」
子育て支援、はしていくべきです。しかし、私は、子育て「放棄」支援はしたくない。子育て支援の目的は、決して子育てを「楽」にすることでは、ない。子育ては、みなさま十分ご承知のとおり、「しんどいもの」です。決して楽ではない。それは一人の人間を育てる、という、とても重要で、大切で、大変な「一大事業」です。楽なわけがありません。
私は、子育ては、「しんどいけど、楽しいな」、と思っていただく、そのようにかかわらせていただくことが、幼稚園のできる、最高の子育て支援だ、そう考えているのです。
保護者の方と私どもが「ともに子育てをする」、それが幼稚園なのです。
一時は、子どもの個性を伸ばすために、「なんでも子どものしたいようにさせる」「子どもの主体性を大切にする」という子育てがよいように言われた次期がありました。
幼稚園教育でも、子どもを「指導」する、のではなく、「援助」「助言」する、という言葉ばかり使われていました。
このため、それを誤解した幼稚園では、たとえばブランコで遊ぶために並んでいて、順番抜かしをした子どもに対しても、「それはその子の個性」と、注意をしないし、指導もしない。
家庭でも、しつけや社会のルールを教えない。それどころか、保護者の方の考え方が、「どんなものだろうか?」と思う話を聞くこともあります。
ある会で、ご一緒した方から聞いた話です。
ある小学校で、子どもが、石を投げて窓ガラスを割って遊ぶので、注意して、そしてその保護者に「石を投げてガラスを割るのはいけない」と注意してください、と、先生がお願いされたそうです。すると、その保護者の方のこたえは、
「先生、それは、そこに石があるから悪いんでしょう。石がないようにしてください」
私は、耳を疑いました。が、本当の話だそうです。
このような考えの子育て、間違っていますよね?私はこんな考えがまかり通るようになる世の中にしては、決してならないと思っています。
いつもお話することですが、自由には規律が、個性には基本が、権利には義務がともなう。なんでも自分中心に考えるのは断じて間違いです。
特に政治家の方々の発言に多い。
「この問題は、もっと議論をする必要があると思います」
「議論を深めていくことが大切だと思っています」などなど。
もちろん、重要な問題について議論することはとても大切なこと、です。議論することなしに、独断専行したり、軽薄な決断をしたりして、政治を進められては困ることもあるでしょう。
しかし、私は言いたいのです。「何でもかんでも『議論、議論』してもらわなくてもいい。それより拙速で構わないから、即、『行動・実行』してもらったほうがいいこともある」、と。
私たちが、生きている社会は、何事も議論や相談をしてばかりで進んでいくわけではありません。もちろん、衆知を集めることは大切なことです。でも、「あれこれ考えていても仕方がない。とにかく、すぐやろう!」と、進めていくこともたくさんありますよね。そして、そのほうが結局よかった、ということが多い。
議論、議論、と、問題と自分の責任を先送りにする、そんな考えが見え隠れしているように思えてならないのです。
子どもたちにも、みんなで相談して決めることの大切さ、と同時に、自分の責任の下に、決断して、即、行動する勇気をも伝えていきたい、と常々思っています。
教壇からの先生の姿と言葉が、頭の中にはっきりと浮かびます。
今、耳にする日常会話の中にも、テレビなどでも、「全然、面白い!」とか、「全然、いい!」という言葉が飛び交っています。
年寄りくさい、と思われるかもしれませんが、私はどうしてもこのような会話に、居心地の悪さ、気持ち悪さを感じてしまいます。
思わず、「それは『断然、面白い!』、か『とても面白い!』でしょう」といってしまいそうになるのです。
美しい日本語、などといわれていますが、間違った日本語の、典型的で、トップに躍り出るのが、この「全然」の使い方、だと私は思っています。
確かに言葉は生き物です。時代によって、世代によって変わるものだし、実際に変わってきている。「どこまでを許すか」ということは、極端に言えば、その人自身が決めればよいことになります。が、やはり、一般的な基準は必要になってくる。
「園長、きびしい!」といわれるかも知れませんが、私が、もし、幼稚園の教諭の面接で、先述のような「全然、面白い、です」という言葉を聞くと、必ず「減点」します。
「ケンチキ」でバイトしてました。「ファミマ」で半年、働きました。もちろんこれも減点、です。
子どもたちにも、「美しい母国語」を伝えていきたい、そう考えています。同時に、TPOで使い分ける「言葉のけじめ」、も伝えたい。言葉までも「自由に、のびのび、個性豊かに」扱ってしまうと、敬語もなにもあったものではない子が育ってしまう。
「友だち先生」もほどほどに。
幼稚園では、もちろん「子どもたちによりよい環境で」、と心を配っています。でも、以前にこのコラムでも書いたように、たとえば「砂場の大腸菌を完全に殺菌する」ということにはまったく対処をしていません。完全な無菌状態の環境、というものは実現不可能ですし、万が一、そのような環境で子どもを育てたら、小学校へ行くとき、外に出る、その時点でとんでもないことになります。
紫外線については、まったく対策を採っていないわけではなく、2階で強い日差しの入り込むR3・R4の部屋の大きな南側窓には、赤外線・紫外線をカットするフィルムが張り込んであります。
紫外線でもっとも気をつけなければならないことは、日焼けなどではなく、「皮膚ガン」です。しかし、現時点の日本では、紫外線と皮膚ガンの直接的因果関係についての例などはありません。おそらく、オゾンホールと、オーストラリア周辺でのことと重ねて入ってきている情報が、誤解を生んでいるのでしょうか。
「紫外線が身体にいい」とはいえません。が、その影響をなるべく減らすには、①日よけクリームを2から3時間ごとに塗る。②肩まで隠れる帽子をかぶる(20%減)。 ③サングラスをかける(目への影響は90%減)。
私は、今は「子どもたちがサングラスをかけて登園するのはいかがなものか」と思っています。
「和」の心とは、決して確立されたものではなく、どの時代のものとするか、で、まったく異なってきます。
今、一般に言われている「和」の心は、おおむね室町時代のものになるでしょう。
応仁の乱で焼け果てた京都の町が再生し、禅の思想が流れ込み、朝鮮半島や中国大陸からの唐物と交じり合い、「わびさび」というひとつの「文化」を
作り出した。「妖艶・幽玄・粋・伊達・数寄」もあったけれども、それまでの「もののあはれ」はその中に昇華吸収されていきました。その後、「わびさび」は何百年を経て、さまざまに変容し、時代の波に洗われてきました。
そして、決定的な二つの出来事が、幸か不幸か、それを確実に変質させてしまう。同時にわれわれ日本人をも変えてしまったのです。伝統はその時点で、不易流行の活力を失い、単なる「鑑賞の対象」となってしまったのです。
そのひとつは、「明治維新」。西洋列強に対峙するため、維新政府は、日本の伝統を洗練する必要がありました。
オカルト的なもの、西洋に恥じると感じられる物事、風習、習俗、文化にふたをして、抹殺してしまった。「和魂洋才」という標語のもとに。
ついで大東亜戦争での敗戦です。GHQの占領政策でさまざまな日本文化が失われ、同時にわれわれ日本人自身が、自ら捨て去っていってしまいました。
今、われわれは、「和の心」を取り戻そう、としています。ですが、間違っても、ニセモノの評論家や学者や骨董屋や、さまざまな「家元」と称する人たちに、それを求めてはならない。
その人たちの説く「和」は、偽りの和でしかないからです。
自らの手で、「和」を取り戻してほしい。答えはみなさんの内にある、そしてそれを子どもたちに
伝えていってほしいのです。
(平成18年11月19日加筆修正)
その様子を何度か見て、ふと考えてしまいました。
「なぜ、食べられるものだとわかるんだろう?」
と疑問に思ったのです。
川には木の葉や木の枝も流れているのです。遠めに見ると、私には区別ができない。なのに、トンビはそれにはまったく目もくれず、ただ、パンだけは、確実に取りに降りてくるのです。
人間は、哺乳類の一種から、サル、そして人間へと「進化」してきた、といわれます。その過程で
さまざまな道具を作り出し、「文明」といわれるものを発展させてきました。しかし、それと引き換えに、動物として本来持っている能力を失ってきたのではないでしょうか?
ライオンは、そのえさとなる動物が、絶滅することのない範囲で捕らえる、という話を聞いたことがあります。その他の動物も、「自然の生態系」という規則を、本能的に守り、保っているのだそうです。人間はその規則を、文明の発展とともに壊し続けてきました。
それが、今の地球温暖化や過剰な森林伐採による環境破壊、動植物の種の絶滅の原因になっています。本来本能的に持っていた生態系を守る能力、感覚を、文明と引き換えに失っていった結果だといえると思うのです。それは実は「進化」ではなく「退化」であり、「発展」ではなく「破壊」ではないでしょうか。
今、大自然の摂理ともいえる生態系の規則、失ってしまったその第六感を意識して取り戻し、自分たちの生きるこの地球環境を、再び自然なものに戻していくことが大切なことだと思えるのです。
さらに、多くの日本人の評論家もこれに同調して、「グローバル・スタンダードの時代に、Yes, Noをはっきり言わない日本は通用しないのです」などとの発言を繰り返している。これはみなさんもよくご存知で、そして「そうか、日本人、って、ダメなんやなぁ…」という印象をもたれている方も多いかも知れません。
しかし、しかし、です。私は、はっきりと申し上げます。
「Yes, Noをはっきり言わないのがなぜ悪い!」と。
私たち日本人は、何千年の歴史の中ですばらしい文化をはぐくんできました。そしてその中で、物事を断る時に「またにしておくなはれ、考えておきます、今回は遠慮しておきます」という断りの言葉を生み出し、日常使用してきました。
これは、相手に気遣い、やんわりと断る、「婉曲話法」という、優れた「断りの言葉の文化」なのです。
「郷に入っては郷に従え」。もし、諸外国が日本で商売をするならば、まず、英語を押し付けず、日本語を、そして日本の文化・風土・国民性を勉強し、理解し、それから商談を始めるべきです。「考えておきます」は「No」だ、と知ってから商談に臨む、これが礼儀であり国際交流の基本だと思うのです。
なのになぜ、欧米の常識や考え方を押し付けられなければならないのでしょうか?
冒頭の評論家に
「あなたも日本人でしょう?そんなに日本がいやなら、国籍を変えたらどうですか?」とたずねたら、
「うーん、考えておきます」。
日本の文化に、みなさん誇りを持ちましょう!
先週の木曜日、偶然、会合で隣に座らせていただいたので、常々疑問に思っていたことについてご教示いただきました。
まず、いつも皆様にお話ししている、「脳の発達曲線」のグラフについて尋ねました。
私は、
「『0から6歳ごろまでに、脳の基礎的な配線は、その90%を終える。このため、幼児期はとても大切な時期だ』と考えています。いかがでしょうか?」
との問いに、先生のお答えは、「その通りですよ」。
そこで、「ところが、先生、最近『3歳児神話』は崩れた、などと言う人がいますが、これはどうなのでしょう?」と尋ねました。
すると先生は、「4歳ごろまでが大切な時期なので、それはおかしいよ」と教えてくださいました。
話は自由・個性・権利尊重教育の現状とその非現実性に及び、いろいろとご教授いただきました。
たとえばご両親が、「幼児期は自由に育てることが大事」と子育てをなさっているとしましょう。そう主張される方に、私はこう尋ねています。
「それは結構なことですね…。では、子どもが赤信号を無視して、『自由』に渡ろうとしたら、どうされますか?」
今まで、それでも自由に渡らせる、と答えられた方にであったことはありません。つまり、いつも申し上げている通り、「自由には規律」が、
「個性には基本」が、「権利には義務」が伴う、それを無意識にはご存知なのです。
しつけや礼儀作法、社会的基本ルールは、自由を保護・保障するための最低限の規律です。
それを「押し付け」と排除するのは、はなからおかしいことなのです。
さて、お母様はじめ保護者の方から、「子どもって、結構いろんなことを覚えますけど、すぐに忘れてしまいます」という声を聞くことがあります。確かに、すぐ忘れてしまうかも知れません。でも、「忘れる」ということと、「記憶していない」ということは根本的に違うものなのです。
あるものを見たとき、視覚を通して脳に入り、最終的には「海馬」といわれるところに、すべて記憶として残されていきます。
例えばこんな経験を、誰もがおもちではないでしょうか?初めての場所に一泊で家族旅行に行った。いいですねぇ。温泉に入ってゆっくりくつろぐ。楽しい時間はあっという間にたってしまう。
帰りの電車で、ぼんやり窓の外を眺めていると、「あ、この看板、昨日、行きに見たな。この景色、覚えてる。この駅、この踏み切り、そうそう行きに通過したな」。
いかがですか?行きの電車の車窓から、「この風景、看板を覚えておかなければ…」というわけではないにもかかわらず、記憶には残っている。
これが本当の意味での「記憶」なのです。付け加えれば、イメージ・感性を主に司る「右脳」の働きなのです。
6歳までの幼児期は、特にこの能力が優れて活発に働く時期です。子どもたちは「忘れる」かも知れませんが、「記憶」にはしっかりとそのイメージや情報は残っているものなのです。
まず「ゆとり」を、と、量的・質的に教える内容を減らした。
その結果、生きる力を育むどころか、基礎学力の驚異的な低下をまねき、さらに命を「殺傷」する子どもをも育ててしまうことになった、みなさんもよくご存知のとおりです。
先日、ある小学校の先生が、
「お役人の『机上の空論』ですわ。現場のことを何もしらない」と嘆いておられましたがまったく同感です。
さて、かすがようちえんでは、「生きる力」とは、つまるところ「問題解決能力」だと考えています。
わかりやすく説明しましょう。
たとえば、バトミントンをしていて、誤って屋根に羽根が乗ってしまった(①問題の発生)。
羽根をとる方法を考える(②検討)。
考え付いたさまざまな方法を、最善の方法で試みる(③実行)。
うまくいかなければ修正する(④修正・変更・調整)。
羽根を取ることができた(⑤解決・適応)。
これが、すべての「問題解決」の手順です。そして、この中でもっとも大切なものが、「②解決法の検討と④修正・変更・調整」だと考えます。
それを多種多彩に、数多く考え出す能力がもっとも大切だ、そう考えているのです。
その要素の単位をBOI(Bit Of Intelligence)つまり「情報・知識の粒」と呼んでいます。毎日のルーティーンで、子どもたちが「ビーオーアイ!」といっているものもこのひとつです。
これが多ければ多いほど、その組み合わせのパターンが累乗的に多くなり、問題解決にいたる「方法の選択肢が多くなる」=本当の意味で「賢い」=「生きる力が豊か」に育つ、そう私は考えています。
現在の子どもの問題を取り上げて議論するような内容だったと記憶していますが、あるタレントがこんな話をしていました。
「電車に乗っているとき、化粧直しをし始めた女子高校生がいた。隣に座っていたおじさんが、『人前で化粧なんかするもんじゃないぞ』」とたしなめたそうです。
私は、「ほぉ、何とそういうことを言える気骨のある人がまだいたんだな」、と感心して聞いていました。すると、そのタレントが続けて「その直後、そのおじさんの携帯電話がなって、『はい、もしもし。あー、いつもお世話になっております…』って」。
会場も爆笑、私も爆笑、というか苦笑してしまいました。
善悪、というものの判断は、本当にむずかしいものです。時代の流れ、そのとき、場所、状況によっても、地方、個人によっても違ってきます。
例えば、車からタバコの吸殻をポイ捨てする人もたくさんおられます。その人が、それを「悪」と思っていらっしゃらないのでしょう。でないと、あんなに堂々と捨てられません。私はよくないことだ、と考えています。
かくいう私も、知らず知らずのうちに「悪」を行っていることと思います。しかし、自分では気づいていなことも多いと思うのです。
みなさん自身も、また、子育てについても、善悪の基準を再確認していただくことが大切なことかもしれないな、と思う今日この頃です。
自戒の念も込めて…。
私は、子どものころから大の「虫好き」ですが、あのゴキブリだけは苦手です。夜、電気をつけたとき、ごそごそっと近寄ってくる、ぬめっとした茶色いはね。それが飛んで、こちらへ向かってきたときにはもう、「うわっ」とおののいてしまいます。
一説によると、地球上のあらゆる生物が死に絶えてもゴキブリだけは生き残る、といわれています。ゴキブリは誰もが認める「害虫」の王様でしょう。
では鳩はどうでしょう?マンションなどにお住まいの方は、糞害で困ってらっしゃるかもしれません。でも、鳩は「平和の象徴」とよばれることもあります。公園で、お年寄りがえさをやってらっしゃる光景は時にほほえましくも見えます。
園庭にときおり、すずめがやってきます。ちょんちょんと、かわいらしい姿をみせてくれますが、お百姓さんにとってはせっかく実った稲を荒らす「害鳥」なのでしょうか。
広辞苑で「害鳥」を見てみましょう。
「農林・水産上有害な鳥類をいうが、どんな鳥でも一年を通じて害鳥であることはない。例えばスズメは秋に穀物を食って害をするが、春夏には、虫を捕らえ、非常に有益である」。
なんて勝手な定義なんでしょう!いえいえ、広辞苑が、じゃありません、私たち人間が、です。
ゴキブリも鳩もすずめもほかの動物昆虫たちも「害・益」で考えられるように生まれてきたわけではありません。人間が勝手に決め付けているだけです。
わたしには、今、人間が、地球上で最もたちのわるい「害動物」だと思えるのですが。
そこで、毎年、新年の挨拶を申し上げるのですが、今年は、次のようなことをお話ししています。
これから、数年または十数年かけて、「経済的、お金の豊かさ」に幸せを求める世の中から、「精神的、心の豊かさ」に幸せを感じる世の中に変わっていくでしょう。
心の豊かさ、という言葉は近年よく言われてはいますが、しかし、昨年も、「勝ち組・負け組」とか、「ヒルズ族」、「セレブ」という言葉がはやったように、まだまだ、競争社会で経済的、物質的に
豊かなことがよい、という風潮が主流です。
でも、やはりこれからは、勝ち負けや、お金が豊かにある、ということではなく、どのような環境、状況にあっても、その人の心の持ち方ひとつで、「幸せ」を実感できるような世の中になっていく、
いや、いかなければならないと思えるのです。
私の身近に、どんなことにも「ありがたい、ありがたい」といつもおっしゃる90歳のおじいさんがいらっしゃいます。とてもお元気で、カクシャクとしていらっしゃいます。その方に会うたび、私は謙虚な心、感謝の気持ちの大切さを実感し、常の自分を反省するのです。
今、世の中は、まさかと思うような企業が倒産したり、異常な出来事が起こったりしています。まさに、これからは、大きな価値観の変換(Drastic Paradigm Shift)が起きるに違いありません。
子育ての上でも、心の豊かさに幸せを感じることのできる子に育てる、これが大切なことになってくる、と私は考えています。
最先端の遺伝子研究で有名な方で、「生命(いのち)の暗号」、「笑う!遺伝子」などの著書があります。
特に最近、あの吉本興業と協力して、「笑いが病を癒す」ということを、遺伝子レベルで科学的に解明していこう、と研究をされています。「笑う!遺伝子」にはそのあたりのことがわかりやすく書かれていますので、興味のある方は、是非お読みください。
その村上先生がおっしゃるのですが、とにかく遺伝子を研究していけば行くほど、「誰かが意図的に書かなければこんなものはできない」と思わざるを得ない。それを書いた神様・仏様と呼んでもいい「サムシング・グレート(偉大なる何か)」の存在を認めざるを得ない、と断言されています。
私も、神社の宮司をも務め、人智を超えた神様の存在を感じています。そして、何度かこのコラムでも書いてきたのですが、人間があたかも自然を征服し、操っているかのような思い上がりを常々感じざるを得ません。
科学や文明は、自然を征服したり破壊したりするためにあるのではなく、自然の偉大な力を知るためにあるのだ、私はそう考えているのです。
被害にあわれた方々には恐縮なのですが、ひとたび地震や台風などの天災が起きると人間の力など本当にたかが知れています。これを「人智の賢しら」というのでしょう。
大自然に対して謙虚で感謝の気持ちをもって幸せに暮らす。文明の進んだ先進国、大都市には見られないその姿を、かえって時折テレビなどで目にする未開な民族などと呼ばれる人々の生活の中に感じるのは、私だけでしょうか?
仕事柄、今までたくさんの教育・子育てについての講演を聴いてきましたが、松居さんのお話は、海外での実際のご経験を通してのもので、とても説得力があります。私の嫌いな「欧米では…」「スウェーデンでは…」の論調で、よく教育評論家が、物知り顔で唱える教育論を、舌鋒鋭く論破されます。
「松居先生、困った母親がいるんです」
とある園長先生。
「自分がカレーを好きだからといって、子どもに毎日カレーしか食べさせないんですよ」。
それは問題ですね、といって3秒後に松居さんははっと気づいたそうです。
「でも、園長先生、インド人は毎日カレーを食べてますよ」。
インドの田舎で1年間生活をされた経験からの答えに、園長先生は
「あっ、ほんとですね。どうして私、こんなことにこだわっていたのかしら」。
松居さんはおっしゃいます。
「世の母親の抱えている問題の80%は、この『インドのカレー』を思い出してくだされば解決するんですよ」「子育てに、正解はないんです。親の趣味でやればいいんです」
また、こんなお話もありました。「砂場で遊んでいる3歳児より、幸せになれない。なぜなら、大人は競争に勝つこと、お金持ちになることを幸せと考える『ものさし』を持ってしまっているからです。幸せのものさしを変えるだけで、砂場の砂でも幸せを感じることができるのです」。
幸せのものさしを、一度見直してみることが、心の豊かさを得るためには必要かも知れませんね。
私は、今言うと、幼稚園の職員にも「うそー!」といわれるのですが、園長に就任したころは、3分間、話をするだけで、前の日から原稿を書き、それを覚えて、また当日の朝早くおきて、散歩をしながら覚えた原稿を繰り返し暗唱したものです。
今は、「園長の話、長いなぁ」とみなさん、心の中で思っていらっしゃるでしょうが…。とはいえ、今でもその場で急に「なにかしゃべれ」といわれるとあわててしまうほど、人前で話をするのは好きではありません。ほんと、です。
ただ、園長になったとき、「大勢の前で堂々と話ができるようになりたい」という目標を立て、そして、話をする機会をできるだけ多く持ったり、頼まれたら断らないと決めたりしました。そして、自分が話をしているところをビデオにおさめ、あとで見て(これが苦痛でした)悪かったところを反省し、チェックしました。そうして練習を重ね、うまいへたは別にして、だんだんと話せるようになってきたのです。
最初からいきなり自転車に乗れる人はいません。転びながら次第にうまく乗れるようになるものです。
冒頭の言葉はロシアの古いことわざだそうですが、私の好きな言葉の一つです。
みなさん自身も子どもたちも、失敗することもたくさんあるでしょう。叱られたりすることもあるでしょうが、失敗を成長の過程ととるか、単なる失敗に終わらせるか。これはその人の考え方、とらえ方によります。
子どもたちが失敗したときは励ましてあげてください。そして是非、できたところまでを認めて、ほめてあげてください。
さまざまな育児雑誌や子育てに関する本があります。その中で主張されているものは、それこそ千差万別、種々さまざまです。
ある本には「叱って育てなさい」と書いてあるし、ある本には「できるだけほめなさい」と書いてある。これでは子育てに「正しい方法などない」と思われても当然です。
あるときすばらしい実践をされている教育者の方の講演で、こんな言葉を聞きました。
「悪いことをした中学生の息子に『おまえなんか、このうちを出て行け!』と父親が言ったとします。そのとき、ある子は、親父はこれほど真剣におれのことを考えてくれているのかと『お父さん、ごめん』というかもしれません。また『そしたら出て行ってやる!』と本当に出て行ってしまう子もいるでしょう。このように、教育に『こうすれば正しい』というものは、ないのです」
たしかに、その通りです。具体的な場面になると、その子の性格や環境、そのほかさまざまな状況によって叱り方でも違ってくるでしょう。
川上元巨人軍監督が、「長島を叱るときは、みんなの前で、大声で叱った。しかし、王を叱るときは、二人きりのときに、説いて聞かせるようにした」と話されていました。長島さんと王さんの性格の違いで叱り方を変えていた、というわけです。
では、子育ての基本原則のようなものがまったくないのか、というとそうは思いません。
私は、園で行っている「生活の四大原則」は、しつけの大原則、そして、子どもの小さな達成を「ほめ、励まし、認める」言葉がけ、これだけは普遍のものだと考えているのです。
DMならシュレッダー行きですし、営業にこられたら、私は「いりません。やりません」と答えています。
なぜ?と思われるかも、ですが、砂場どころか、幼稚園は「雑菌だらけ」だからです。驚かないでくださいね。実は、ご家庭、お店、デパート、電車、バス、はたまた空気中、世の中にはもともと雑菌がいっぱい、なのです。
最近、抗菌グッズ、がはやっていますが、こんなものは実はぜんぜん役に立たっていない。意味がほとんどない、と言ってもいいと思います。
もし、仮に、「無菌」の状態で、生れたときからお子様を育てたとしたら、例えば、6歳になって、突然雑菌だらけの世の中に出たら、とたんにいろんな病気にかかってしまいかねません。
子どもは、もちろん私たちもですが、幼い頃から大腸菌などの雑菌によっておなかをこわしたりしながら、だんだんと抵抗力を身につけていくものなのです。完全な無菌状態での生活、というのは身の回りを抗菌グッズでかためても不可能です。
電車のつり革より、トイレの便座のほうが、菌が少なかった、という実験報告を聞いたこともあるくらいです。
砂場に犬猫の糞がある、のは論外ですが、おなかを壊すこともあるかもしれないけれども、大腸菌などをわざわざ殺し、無菌状態にするほうがおかしい、そう私は考えているのです。
「理由があって。かすが幼稚園では、スクールバスで園児の送迎はさせていただいておりません」
働く女性が増えて、子育てや家事の負担を軽減する制度や環境が整備されつつあります。いっぽうで、そうした「子育て支援」の充実に頼り、子育てについて手を抜いてしまったり、大人の都合でラクをしてしまったりすることが助長されているとしたら、それは本当の意味での子育て支援となっているでしょうか。
例えば「かすが幼稚園」には送迎バスがありません。送り迎えは親子のふれあいと会話の時間であることはもちろん、担任の先生とお互いの理解や信頼関係を深めていただく大事な機会にもなると考えているからです。また、他のご父兄方と言葉を交わしあい、子育ての悩みを共有したり、時には世間話を楽しんでいただく、子育ての仲間づくりの場でもあるからです。
毎日の送迎は大変なご負担であろうかと思います。が、もともと子育ては面倒で大変なことなのです。子育ての手間を省く手助けではなく、子供たちと真正面から取り組むために。面倒であったり大変であったりすることをも大切にしながら。
私たちは、お母さんお父さんたちと共に子育てのパートナーシップを育んで生きたいと考えています。
これだけ聞くと、「それはいいことだな」と思えるのですが、私はいつも疑問を感じるのです。
「ビオトープって、自然なんだろうか?」
ビオトープについては正直言ってほとんど勉強していませんので、もっと深い意味があるのかも知れません。しかし、私には、ビオトープは、もともと自然にはないところに「人工的に」自然をつくり出すものにしか思えないのです。つまりまったく不自然で人工的なものです。
自然は、あくまであるべきところに小川をつくりだします。大雨などで水流が変わることもあります。だからこそ自然なのです。
ところが、人工の池、ならまだわかりますが、もともと水源のないところに小川をつくるとなると、「水を濾過して循環させる」などの方法がとられ、大変な費用がかかりますし、「草が枯れ、水がにごるので立ち入り禁止にしている」、という、笑えない話も聞いたことがあります。
子どもたちに自然を体験してもらおう、というのであれば、山や川や海に行けばいいのです。そして大自然の大いなる営み、生態系を、肌で感じてもらえばいいのです。もともとないところに「人工の自然」という、変な矛盾をはらんだものをつくる。大層にいうならば、これは大自然という大いなる力への軽蔑と侮辱ではないでしょうか。
今こそもう一度、自然の力の偉大さに、感謝と畏敬の念を、子どもたちだけでなく私たちも、もち直してみる時期だと思うのです。
いつも言うことですが、私はこういう他国との安易で短絡的な比較で話しをされるのが大嫌いです。
もちろん、他国のもつよい面を取り入れることには賛成ですが、しかし、安易な「遅れている」論は、本当に腹立たしい。
それぞれの国が、それぞれの歴史に根ざした文化をもっています。そして、それを、相互に理解しあいながら、よい意味の文化的交流をしていくべきです。米国のように、「他の文化を一切認めない」と考えているかのような姿勢には常々疑問を感じています。
子育て、教育だけについてみても、同じような論調で語られることがたびたびです。私は、子育ての仕方も、その国の文化のひとつだと思うのです。「夫婦別姓」にしても、日本の「家」を大切にしている社会的・文化的基盤を、根幹から揺り動かす問題です。安易な論調に流される問題ではありません。家庭・家族というものの存在意義がまったく変わってしまいます。
以前に書いた「ジェンダー・フリー」の活動もそうです。男女の性差による差別をなくす、とのことで、「ひなまつり、端午の節句などは、女らしさ、男らしさの押し付けだから、やめなければならない」。こんな主張を平気でする。
困ったことに、この活動の影響で、自治体レベルでは、まったくもってへんてこな「性差解消」の条例などができています。学校では「差別をしないために、健康診断のときの着脱衣は、男女同じ部屋でする」。こんなことが、実際始まっているのです。
みなさんはどう思われますか?
そういう事件の報道を見ていて、あるひとつの特徴があることに私は注目しています。それは、人を殺した後の、その加害者である少年少女の「態度」です。「父母を殺した後、妹としばらく談笑していた」「取調べのとき、淡々としている」といった報道を見聞きされていることと思います。
もし、私が、まかり間違って人をあやめてしまったとしたら、それこそどこかに隠れて布団にでもくるまって、ブルブル震えていることでしょう。なのに、その子どもたちは、「淡々と」しているのです。なぜでしょうか?
以前、「殺人ゲームの影響」という題で、殺人や格闘の過激なゲームの悪影響について書いたことがあります。すっぱいレモンを想像しただけでつばが出てくる。これはイメージによって、脳が間違った信号を送るわかりやすい例です。
大変精密にできている人間の脳ですが、このような「欠陥」がある。繰り返しインプットされた情報について、脳はイメージしたものと実際に体験したこととの区別ができないのです。
では、殺人ゲームを何度も何度も繰り返した子どもの脳はどうなるでしょうか?もうおわかりですよね。そう、その子の脳は、無意識のレベルで実際の殺人とゲームとの区別がつかない状態になっているのです。だから淡々としていられるし、また簡単に人を殺すことができるわけです。
だからこそ、特に脳の基礎ができる幼児期には過激で特にリアルなゲームは絶対避けていただきたい。ご家族がされているのを見るのも同じです。
子どもたちは、時に「幼稚園、行きたくないー」と言ったり、「○○ちゃんが、いじめはる」と言ったりすることがあります。その原因はさまざまで、私たちの知りえないところにある場合もあります。
例えば、こんなケースがありました。
「幼稚園、行きたくない」と言い出した、とのご相談をお母さんから受けました。いろいろお話しして、考えていったところ、こういう状況がその原因となっていたのです。
実は、下の弟さんが、まだ1歳くらいで、風邪で数日熱を出し、その間、お母さんが弟さんにかまいっきりになっていらっしゃった。そこでお姉ちゃんは、「お母さんを独占されている」と感じ、「もっと私もかまってほしい」との気持ちから、「行きたくない」と駄々をこねていた、というわけです。もちろん数日でそれは解決しました。
こんなとき、お母さんは、「幼稚園で、何かあったんやろうか。誰かにいじめられてるんやろうか」と、原因を外に求めがちになり、そして時に「深刻」に考えこんでしまわれることがあります。
「いじめはる」と言う場合も、担任に聞いてみると、いわゆる「お互いさま」のことが多い。誤ってひじがあたったのが原因で、けんかになるケースなどが多いものです。そして、何日かすれば解決することがほとんどです。
どうぞ、「真剣」には考えても、決して「深刻」にはならないで下さい。
これは子育ての上で、とても大切なポイントです。
「今後、より連携、連絡を取り合って、子どもたちの健全な育成をはかっていこう」という目的のために開かれたのですが、その席上、京都市教育委員会から「小一プロブレム」「中一プロブレム」という状況が起きてきているとの報告がありました。
プロブレム、とは「問題」という意味ですが、私は「小一プロブレム、とは具体的にどのようなことですか?」と質問をしました。
教育委員会の方の応えは「例えば、人の話が聞けない、じっと立っていられない、約束が守れない、自分の考えを自分の言葉で表現できないなど」とのことでした。
私は、「ならば、人の話がきける、じっと立っていられる、約束が守れる、自分の考えを自分の言葉で表現できる子を育てる、ということを幼稚園、保育園で実行したらいいのではないですか?」と、今、かすがようちえんで行っている「生活の四大原則」を例に出して意見を述べたのですが、結局その後いくつかの意見交換の後、話はまとまらずに閉会となりました。
子どもの行動が「プロブレム」といわれているのですが、原因は子どもにあるのではなく、家庭、幼稚園、保育園にある。子どもはその被害者ともいえます。
いつも言っているように、「自由に、個性を大切に」はいいのですが、基本的なしつけや生活のルールは幼少期にきちっと身につける、これは家庭、幼稚園、保育園の大きな役目だと考えています。
これをおろそかにした結果が「小一プロブレム」だと思うのです。
どんな風に「どうしようもなかった」のかは聞いていないのですが、とにかくどうしようもなかった。そしてその父親たちに、保育園も、ほかの保護者もとても手を焼いていたそうです。
ところがその保育園の園長先生、年配のおばちゃん先生ですが、すごいパワーの、日本で三本の指にはいる(その人いわく)先生でした。
園長先生は秘策を練りました。その秘策とはいわゆる「お泊り保育にその三人を参加させ、子どもたちの世話を一緒にさせる」というものでした。
「なんで俺たちが…」という顔と風貌で現れた当の三人。何十人という幼児の世話をあれこれ命じられ、いやいやながら動き始めました。
ところが夜を迎える頃になると彼らの表情や態度に変化が出始めました。鋭かったまなざしに優しさが現れてきたのです。
翌日、園児が帰るころには、三人の顔はすっかり柔和になり、「とてもいい経験をさせていただきました。ありがとうございました!」と口々に御礼をいって帰っていったそうです。そして、その後、すっかり「よい父親」になったそうです。
「うっそー!」と思われるでしょうが、本当の話です。
私も教諭の免許を取るために、幼稚園で実習をしたのですが、たくさんの幼児を前にしてまず感じたのは、「なんてキレイな目をしているんだろう」ということでした。それに比べて大人になった自分の、ある意味で汚れた目と感受性にショックを受けたことをはっきり覚えています。
子どもに「教えてやっている」、だけでなく、純粋なその目から何かを感じてみてください。
でも、ちょっと考えてみるとおかしなことに気づきます。
子どもが持って生れた個性は、すべてよい個性だ、とは限らないはずです。もし、生れたままの個性を大事にして育てたら、それこそ粗野で野蛮で粗暴な子に育つ可能性も大きいはずです。それは、実は「個性」ではなく「野性」なのです。
野性を大切に育てることがよいことだとすると、オオカミ少女やジーニーのように、社会に適応できない野性の子を育てることがよいことだ、ということになってしまいます。
子どもはさまざまの個性を持って生れてきます。しかし、その個性の中から、よい個性を伸ばし、悪い個性を矯正していく必要があるはずです。その善悪を見極めるのは難しいことかもしれませんが、しかしそれが家庭での教育やしつけであり、また幼稚園や保育園、そして学校の教育にも必要とされていることだと私は考えます。
子どもの個性を大切に、と考えるあまり、何でも子どものしたいようにさせる。これは決して個性を大切にした教育ではありません。私に言わせれば、それは子どもの「野性」を野放しにする教育であり、もはや教育と呼べないものだ、と考えるのです。
粗野な野性を個性に変えていく作業、これこそが本当の意味での「個性を大切にする教育」だと思うのです。
環境問題、資源のムダ使い、リサイクル運動などという言葉を耳にしない日はありません。企業もこぞってこういう問題にとり組んでいると聞きますし、ごみの分別収集も盛んですよね。ならば、紙タオルなんて用意しなくていいのではないか、と思うのです。
仮に原材料が安くて環境破壊につながらないものを使っているとしても、各自がハンカチを使えばすむ話ではないでしょうか。紙タオルを設置する器具の費用、紙タオルの費用、決してただではないはずです。
家電製品、特に携帯電話の修理を頼みに行ったときも、「これ、直すより、新しいのにされたほうが安いですよ」といつも言われます。そういえば、いつだったか使用済みの携帯電話が山のように積まれた光景を、テレビで見たことがあります。
一方で、「限りある資源を大切に」、といいながら、他方でこれでは、いったい世の中、どうなっていくのでしょうか?総論賛成・各論反対、本音と建前、二枚舌。そんな言葉が見え隠れしています。かくいう私も、聖人君子ではありませんので、その場に出くわすと迷ってしまいます。
生産、流通、卸、小売、消費者、世の中全体で、本質から見直さないと、ポーズだけの「地球環境を守ろう」では結局、自分で自分の首をしめていっているような気がしてなりません。
物質的な豊かさから精神的な豊かさへ、幸せの基準を変えるのはもう無理なのでしょうか。
先日、前衆議院議員、山谷えり子さんの講演を聴きました。
山谷さんは一男二女の母親。サンケイリビング新聞編集長を経て政治の世界にかかわられている方で、今のゆがんだ子育て・教育の現状を正そうと熱心に活動されています。
山谷さん自身、効率最優先の仕事の世界で生きてこられたため、自然と子育ても「効率的にするのがいい」と、例えば、オムツを換えるのも、とにかく「速いほうが優秀な母親だ」と思っていた。すっかり仕事モードの効率追求になっていたのですね。
オムツを換えるときに「ムチムチおしり、かわいいわねぇー」とおしりをなでながら、言葉をかけながら、3分4分は時間をかけて換えるほうがいいんだ、子育ては効率じゃないんだ、とずいぶんたってから気づかれたそうです。
今、育児雑誌などに子育てに関する情報があふれかえっています。反面、昔は当然のようにあった祖父母や近所の人の助言は少なくなっている。
女性はお産をされると、当然ホルモンのバランスが崩れます。このため、3人に2人は必ず軽い育児ノイローゼになるそうです。しかし、それを軽いもので抑えるためにはやはり周りの人々の、直接の助言、援助というものが大切なのです。
家庭や地域の連帯感の中で子育てをする、時にはわずらわしいこともあるでしょうが、そういう環境を今作ることが大事なのだと思っています。
「お母さん、夕焼け、きれいねー!」、こんなお子様の声に、「はよ、歩きなさい!」ではなく、「ほんと、きれいねぇ…」と応えてあげられる、そんな心の余裕をすべてのお母さんが持てるように、幼稚園も行動していきたいと思っています。
私どもがいつも感じ、思うこと。それは保護者の方の力、特にお母さんの力の偉大さ、です。
「子どもたちを見ているとご家庭の様子がわかります」と、私はよく皆様にお話しをします。そして「親の背中を見て子どもは育つ」と言い習わされてきましたが、ある面でそれは正しいなあ、と思わされます。
お母さんの気持ちや愛情が「豊か」だと、お子様の気持ちも豊かです。しかし、どことなく余裕のない気持ちをお持ちだと、それも伝わってしまう、そんなことをよく感じます。
数日前、「24歳母 乳児下腹部切る」「塾行かぬと小2長男絞殺」など、殺伐とした見出しが新聞紙面に躍っていました。なんとも胸が痛みます。前者の事件は「母親の幼児期の虐待体験から来る男性不信で発作的にやった」と記してありました。
ここで思うのは、まず、やはり幼児期の「幼児体験」「原体験」といわれるものの影響の大きさです。「6歳までの体験は後の人生に大きな影響を与える。だからこそ、今を大切にして、褒め、励まし、認める子育てをしてください」、これもよくお話しすることです。
次に思うことは、いくら自分が幼児期に虐待を受けていたとしても、それを抑えることがなぜできなかったのか、ということです。虐待まがいのひどいことを受けてきたすべての母親が、このような事件を起こすとは思えません。深い心の傷はあるけれど、だからこそ、自分の子どもに対しては深い愛情で接する、という子育てをされている方も多くいらっしゃるはずです。
「抱きしめる、という会話。」。今、新聞やテレビで公共広告機構がコマーシャルを流しています。
簡単だけど、とても大切なことだと感じます。
また、最近「スローフード」という言葉もよく耳にするようになりました。
簡単に言うと「栄養やカロリーを考えて、安全な、そしてその土地で採れるものをゆったり食べましょう」というようなことのようです。もともとイタリアで起こった活動で、実は私も「京都スローフード協会」の副会長をさせてもらっています。
ある有名な日本料理店の方と話しをしていたときのこと。このスローフードについて話が及んだときの彼の言葉が印象に残っています。
「スローフードっていい活動だと思うけど、ぼくはそれに所属したりするのは嫌や」
わけを聴くと、「ぼくは日本料理をやってる。もともと日本食っていうのはスローフードなんやね。日本人の食生活が変わってきたんで日本でも言い出したわけやけど、ほんまは『元に戻しましょう』という活動をするべきやと思う」
私もまったく同意見で、納得させられました。
以前にも紹介した東京農業大学の小泉武夫教授もおっしゃっていますが、昔の日本の食事といえば、例えば朝は味噌汁、納豆、ご飯、生卵とノリ。お昼は味噌汁、ご飯、おかずにサバの味噌煮とかほうれん草、晩御飯は魚のお刺し身、大根おろしとシラス干しなどをあえたもの、といったもの。
この典型的な日本型食のすばらしさには、絶対に他の国は勝てないのだそうです。そのすばらしさは三つあって、「栄養のバランス」、「カロリーのとり方」、「世界で一番ヘルシーなこと」です。
しかし、今の日本の食文化はまったく変わってきつつあります。
冷凍食品が「お袋の味」になる日が来ないことを願っています。
携帯電話などは、ここ数年で爆発的に広がり、ほとんどの人が持っている、といっても過言ではない世の中になりました。
初期のものは、通話をする、という電話本来の機能だけでしたが、いまではさまざまな機能がつくようになりました。まもなく、動画もさらに滑らかになり、画面で相手の顔を見ながら話す、テレビ携帯電話が当たり前になるでしょう。
とても便利になった、といえるのでしょうが、私はどうもわからんのです。これって便利なんでしょうか?
私なんぞは携帯電話の説明書の、辞典じゃないかと思ってしまうあの分厚さと、そして、機能の多さにヘキエキしてしまいます。便利になった、というより、便利を追求していった結果、不便な「機能おばけ」ができつつあるように思えてならない。そのうち「トースターつき携帯」なんていうのが出てこないかと心配しています。
そしてどこでも「捕まる」という状態は不便で不自由に思えてなりません。さらに、これからテレビ携帯電話が当たり前になると、大きな波が訪れるだろうと予測しています。
写る、写らないを選択できるでしょうが、いつも「写るモード」で話している人が、「今日は写せないよ」となったら「なんで!」となることは目に見えています。
まず、プライバシーなんて完全に成立しない。素顔をみられたくない、という女性はいつ電話がかかってくるかわからないから、常にお化粧しておかなければならない。
携帯電話同士はもうプライバシーのかけらもないという社会が生まれるでしょう。
あな恐ろしや。
そもそも、「ジェンダー」という性別を表す文法用語と、「フリー」という言葉で解放を表そうとしたまったくの和製英語で、ほんの最近に作り出された活動です。
どんな主張なのか、文部科学省委嘱事業の「新子育て支援 未来を育てる基本のき」(発行 財団法人 日本女性学習財団)というパンフレットをのぞいて見ましょう。
まず、出産祝いに、女の子にはピンクの産着、男の子には水色の産着をプレゼントすることは「押し付け」、ひな祭りを女の子の節句として祝い、端午の節句を男の子の節句として祝うのもだめ。
なぜなら、その時点で大人の考える「男らしさ、女らしさ」を押し付けてしまい、型にはめ込んで、「子どもの個性を押しつぶしてしまう」からだそうです。
そして、「色白で優しそう」とほめられ、赤いランドセル、「○○さん」と呼ばれて育つ女の子は高校生の頃には
「好きな人にはつくしたい。おしゃれがしたい。もっとやせたい」
となり、「たくましい元気な子」とほめられ、黒いランドセル、「○○くん」と呼ばれて育つ男の子は
「好きな人を守らねば。スポーツ万能になりたい。きちんとした職業につかないと」
と考える子になってしまい、本来の個性と可能性が伸ばせなくなってしまうとのこと。
どうなんですかね、これ。
昨年、私が参加したパネルディスカッションで、会場から「ジェンダーフリーについて、幼稚園でどのような取り組みを?」と質問を受けました。
「男らしさ、女らしさはある面で日本人が継承してきた伝統であり、文化です。ひな祭りや端午の節句なども、私たちには伝統行事としてしっかり教えていく役割があると考えています」と私は答えました。
そもそも各家庭や個人が決める「らしさ」に口をだすこと自体、傲慢です。
「4回」と答えたのですが、正解は、39回だそうです。3日に1回、農薬をまかないと、虫がついて売り物にならないとのことです。
この話を友人にしたら、その友人の事務所の裏にキャベツ畑があって、確かに頻繁に農薬をまいていらっしゃるとのこと。そして、その農家の方は「自分ではよう食べんわ」とおっしゃっていた、と話してくれました。
私は生産者を責めようと思っているのではありません。日本の国が、豊かで平和になるにつれ、みんなが、安く、早く、いつでも、大量に、どこででも、つまり一言で言うと「効率的」に「モノ」を手に入れたい。そしてそれが「よいこと」だと、考えてきた結果、さまざまな問題が生まれ始めているのだと、最近特に考えるようになったのです。
効率だけを大切にするがあまり、薬品で処理するということも頻繁に行われています。もちろんお役所の基準は守って、ではありますが。
サラダ油も、圧搾という、菜種を絞って油をとる元来の方法ですと、どうしてもロスが出ます。そこで、今では薬品を使って菜種を溶かし、そこから油分を取り出して作られているそうです。これも小島さんのお話にありました。
効率だけを求めてきた私たちの生活は結局環境破壊を、そして回りまわって自らの体、子どもたちの体をもむしばむ結果を生んできています。
食だけでなく、生活全体をさまざまに見直していく時期に来たのではないでしょうか。
お題目のように唱えられるこのことばですが、どうもお役人や学者先生方の「机上の空論」に聞こえてなりません。詳しい解説を読んでみると、とても耳障りのよいことを言ってはいるのですが、本当に現場を知っているのか、と叫びたくなるようなところもたくさんあります。
みなさんも小学校時代に一所懸命覚えた「九九」。私は、微分・積分といった高等数学を実社会で使ったことはありませんが、足し算などは毎日のように使いますし、九九のお世話にならない日はないように思います。無味乾燥だった九九の暗唱ですが、今となれば「ああ、繰り返し覚えさせられて、よかったなぁ」としみじみ思います。
この九九。今も小学校低学年の算数に出てきます。しかし、「ゆとり教育」の賜物でしょう、九九を学習する期間が決められていて、その期間に覚えなかったら、「 はい、次に進みましょう」という学校もあるそうです。「九九を覚えない自由と個性」を大事にするのだとのこと。さらにもし、先生が、「放課後に残って覚えなさい」とやると、今度は「子どもの人権侵害」で、親がどなりこんでくることもあるそうです。
私には、九九を「覚えない」ことによって、その後の算数の学習に大きなマイナスを作ることになると思えるのですが。その子自身が、将来にわたってかえって苦労することになると思うのです。
ゆとり教育とは一体、何のためにあるのでしょうか。ゆがんだ個性尊重教育は、結果的に子どもを被害者にしてしまう危険性をもっている。
文部科学省が新しい指導要領を、二年という異例の短期間で見直し始めました。
なにごとにも「型」がある、私がよく申し上げることのひとつです。型、とは基本と同じ意味です。剣道には剣道の、柔道には柔道の型があり、サッカーにはドリブルなどの基本があります。スポーツや芸事だけでなく車の運転、建築の仕事、つきつめていけば結局、社会全般にこの「型」はあるものです。
この型・基本ができていないと次へのステップアップは望めません。たとえば基本のデッサンさえできない若者が、「おれの作品は芸術だ!」と、自分の書いた絵を画商に持ち込んでも相手にされないだけでしょう。
もちろん才能ということもあるとは思いますが、まずは型をしっかり身につけることが先決です。それができた上でその人の独創性や個性が発揮されてくるものだと思います。
以前、ある年配の園長先生が、「自分が若いころ、子どもの個性を大切にしなければと、ピアノの上にのって遊んでいる子に注意をしない、という教育をしたが、あれは間違いだったかも知れない」、とおっしゃっていました。そんなの完全に間違いです。そして、今、その子たちが、おじいちゃん、おばあちゃんの世代になっているそうです。
人間生活の型、それは「しつけ」や「礼儀作法」です。型を教えない子育て。それが個性豊かな子どもをそだてるか、それとも無軌道無秩序な子どもをそだてることになるのか。答えは明白です。
ちょっと聞くと、「なるほど、それは安心やな」と思われるかもしれませんが、私はこれには首をかしげるのです。
営業にこられた方に、私はこうお尋ねします。
「じゃ、もし、あなたの会社にこれがついて、奥さんがいつでも会社の様子を見ることができる。それで奥さんに安心を与えることになりますか?そして、それってうれしいですか?」
そうするとみなさん口をそろえて「うーん、それはいやですね」とおっしゃるのです。
安心、とはなんでしょうか?それは、信頼関係に基づくものであるはずです。幼稚園に大切なお子様をお預けいただいている、そして私たちはその信頼にこたえられるよう日々の教育をしています。時には子ども同士、けんかをすることもあるでしょう。けんか自体はよいことではありませんが、しかしその経験の中で協調性、思いやりが育ちます。
また、子どもたちを叱ることもあります。それは信頼して預けていただいている、という前提があってのことです。
カメラで常に見ることができ、輪切りにした場面を保護者がご覧になる。かえって不安をかきたてる結果を生まないでしょうか。それが「安心を生む」のであれば、信頼関係ということから考え直さなければならないと思うのです。
本当にそうでしょうか?武田龍夫氏の「住んでみた北欧」の一節を紹介します。
「福祉国家として女性の社会的な位置の確立という命題はクリアされても、スウェーデンは家庭、そして学校等、子どもが育つ環境教育政策に関しては失敗している。子育てを国に委託することにより親と子どもは分離され、子どもは非行、アル中、麻薬等で補導されるケースが増加している。親の虐待、暴力、アルコール禍を理由に毎年二万人近くの子どもが両親から引き離されている。夜中に子どもの泣き声が聞こえるだけで密告され、パトカーが両親から子どもを隔離していく。親権よりも児童福祉委員に子育ての権限がある。経済的なゆとりのある家庭は、高額な税金の見返りを放棄して、子どもをフランスやイギリスの私立学校に留学させる」
親よりも、児童福祉委員という行政機関に子育ての権限がある、これが理想的な社会でしょうか。行く末をしっかり見定めた上での「福祉」でないと、悲惨な結果を招きかねません。
「ヨーロッパでは…」、「アメリカの教育は…」などと外国、特に欧米諸国の例を引き合いに出されますと、無条件に屈服してしまう、いわゆる外国への無条件礼賛の気風は見直さなければなりません。
さらに、実は日本のほうがすばらしいことも多いのだ、ということを私たちは知っておかなければならないと思うのです。
現代の若者に増えている病気に「クローン病」というのがあるのをご存知でしょうか?患者の数はすでに全国で二万人になっています。
この病気は、大腸に炎症や潰瘍が生じ、それが大きくなって急性腹膜炎になるというもの。そしてその原因は「食生活」にあるといわれています。
患者の食生活を調査してみると、毎日のようにハンバーガーやフライドチキン、コンビニ弁当やスナック菓子などファストフードを食べていた、ということがわかっています。このような生活を一年間、ずっと続けているとこの「クローン病」になる可能性が非常に高いということです。
また、「キレる」という、あの状態も、最初はストレスや環境に原因があると考えられていたのですが、最近では実はこれも食生活に原因があるのではないか、といわれています。
今使われている化学肥料の中には、昔は含まれていた亜鉛、カルシウム、銅などの微量元素が含まれていません。これらが豊富に含まれている畑で採れたトマトは水に沈みますが、今、普通に売られているトマトはぷかぷか浮くのです。
アメリカで、アマゾンからつれてきたサルを人工餌で育てる、という実験をしました。一方のグループのサルには、前述の微量元素の入った餌を与え、もう一方のグループにはその微量元素が入っていない餌を与えます。すると、後者のサルは非常に凶暴になってくる。一方、前者のサルたちは平和的でなんともないことがわかったのです。
ご家庭の食生活も、お子様の健やかな成長のためにももう一度見直して、本当に「豊かな」食生活にしていきたいものですね。
「女性の社会進出が叫ばれる中、あたかも専業主婦は、社会進出していない時代遅れの女性だ、と思わせるような風潮をあらためないと」、「会社などに勤めていることだけが社会進出ではない。家庭で子育てに専念している女性もそれだけで立派に『社会進出』している」と私は訴えました。
さらにいうと、他のどんな仕事よりも、子育てというものが「一番大切な仕事だ」と信じている。もちろん両親にとってです。その上で、日本の伝統や風土に根ざした性的役割分担もあってもよいと思っています。
誤解のないように付け加えると、私は決して仕事をしながら子育てをしている共働き家庭はダメだ、などど単純に言っているのではありません。「専業主婦」に対しての社会のひずんだ見方、そして「家庭での子育て」を軽視する風潮に警鐘を鳴らしたいのです。
さらに、現在の子育て支援や男女共同参画社会を進めるあり方に、私は疑問を感じることが多い。というのも、こんな図式を思い描いてしまうような場面に出くわすからです。
女性の社会進出を助ける。→そのための「お荷物」になっているものは何か?→それは「子ども」であり、また「子育ての負担」だ。→ならば、その「お荷物」である「子ども」、また「子育ての負担」を取り除けばいい。
このような思考プロセスで「子育て支援」を考えているように思えてならない。特に厚生労働省の「エンゼルプラン」というものは、このような発想から生まれているように思えます。
先日、同省関係の文書の中に、「片働き家庭」という言葉を見つけ、驚きました。すごい造語感覚です。
たとえ時代に逆行している、といわれようと、私は声を大にして、「子どもをお荷物にする社会であってはならない。保育園、幼稚園は、断じてコインロッカーではない。子育ての主体を両親(特に母親)の手に帰そう!」と叫びたいのです。
若い人たちと話していると「私は自分が好きになれないんです」などという言葉をよく聞きます。
そんな時、私はちょっと説教くさいかな、と思いながらも「自分が好きになれない人が、他人を好きになるわけがないよ」と話すことにしています。
自分自身を見つめて、欠点を知り、反省し、そしてよりよい自分になっていく、これは大切なことだと思います。でも、同時に同じくらい大切なことが、自分の長所を自分自身で知り、それをのばし、そして時には自分自身を褒めてあげることだと思うのです。
「自分が好きになれない人が、他人を好きになるわけがない」、格言のような言葉ですが、これは真理だと思います。どこに行ってもついてくる自分というものが好きになれない人が、自分以外の人を、本当に好きになれるわけがない。まず、自分を、よいところも悪いところもみんなまとめて、認めて、「好き」になる。そこから他の人との関係が始まるのだと思います。
国と国との関係でも、日本では、自分の国を自分でけなして、そして他の国をもちあげる、そういう人がいますが、これでは少しおかしなことになるように思います。自分のおじいちゃんのことをけなし、自分の家の悪口を言いながら、他の人のことをよく言う、それはあまり健全なことだとは思えません。
まず自分を好きになるからこそ、他の人を、長所短所も含めて認め、好きになることができるのです。そして他の人たちもそんな自分を好きになってくれるのでしょう。
一つ目は、「親の肩たたきをしたことがありますか」。二つ目は「あなたは母親の足を洗ったことがありますか」。
さすがに後者はあまりやった人はいない。そこでその会社の社長は「三日以内に母親の足を洗って来てください。それができたら試験は合格です」というそうです。
ある入社希望の学生は、恥ずかしくてなかなかいい出せなかったけれども、思い切って二日目の夕方に、「母さん、ちょっとこっちへ来て」と縁側に母親を呼んだ。たらいにお湯をくんで、「これであの会社に入れるぞ」と、照れる母親を前に鼻歌交じりに右足から洗い始めた。
ところが、次に左足を洗おうと持ち替えた瞬間、その手に、あまりにも荒れてひび割れた母親の足の裏を感じたのです。幼い頃に父親をなくし、女手ひとつで兄と自分を育ててくれた母親の、今までの苦労をその手に感じた時、「母さん、長生きしてくれよな」、その一言しかいえず、洗いつづけるその手に、母の涙が落ちてくる。
次の日、報告に来たその学生に、社長はこういわれたそうです。
「今まで君は、決して自分一人の力で大きくなって来たんじゃない。いろんな人の支えがあって成長してきたんだ。そしてこれからは社会人になって、お客様、同僚はじめたくさんの人のお蔭で仕事や生活ができる、それに感謝する気持ちを、今、知っておいてほしい」。
ともすれば、不平不満が口をついて出る私たちですが、支えられながら生きていること、あたりまえになって見えないご恩というものを忘れないでいたいものです。
その一番初めが「1.あいさつをする」、です。なんといってもまず、社会生活の基本中の基本がこの「あいさつ」だと園では考え、いつも心がけています。あいさつの中にはもちろんお礼のことば「ありがとうございます」なども含まれますね。
神社の方でも神職や巫女など職員に同じくあいさつの大切さを話しています。「ご参拝の方と境内ですれ違う時には必ず笑顔であいさつをすること」などと指導しています。
さて、私も境内を歩いているとき、ご参拝の方に「おはようございます」とあいさつをするのですが、お返事が返ってこないことも多い。もちろん返事をしてもらおう、と思ってやっているわけではないのですが、特にそこそこのお歳の男性、会社では「おい、君たち、あいさつが大事だぞ」と若い社員におっしゃっているような風貌の方々から返ってくることが少ないようです。反対に小中高生、若い人たちの方が「あ、おはようございます」とあいさつを返してくださるのです。
「お客様にはもちろんあいさつするが、プライベートではしなくていい」、こういうものでもないと思うのです。「最近の若い者は・・・」なんていえないですよね、これでは。
朝、まず家族に、そして職員にまた保護者のみなさま同士、あまり顔見知りでなくても元気に笑顔で「おはようございます」とあいさつをする。大人の姿を見て子どもは育つ、といいます。2月はそれをもう一度確認する月にしてみましょう。
たとえば、野球の練習で、バットの素振りをしたい、としましょう。素振りをするのは自由ですね。しかし、回りに壊れる物のない、そして人のいない広い場所で、素振りの練習をする。親にも学校の先生にも同じように教えられてきました。
そして、充分注意をしていても、もし、あやまってバットが当たって物が壊れたり、人にケガをさせたりしたら、もちろん謝りますし、責任を取ります。これは当然ですね。
ところが、最近の「自由」はちょっと様子が違うように思えるのです。
「自分が素振りをしたいと思った時に、したい所で素振りをする。僕は自由だから」。
こんな「自由」がまかり通り始めているように思えてならないのです。回りに物があるか、人がいるか、はお構いなしです。もし、物が壊れたら、そこに物があるのが悪い。人に当たってケガをさせたら、その時まわりにいるヤツが悪い。「なぜなら僕には自由に素振りをする権利があるんだから」。そんな理屈がとおりそうな勢いです。
自由には責任が、権利には義務が伴います。責任のない自由はありません。自分が素振りをすることは自由な権利です。でも、それによって人に迷惑を掛けない、ケガをさせない、という義務と責任が当然ワンセットになってついているのです。
もしケガをさせるようなことがあったら責任を取る。それをしっかり知った上で行使するのが本当の自由で、これをぬきにした偽者の自由を単なる「自分勝手」と呼ぶのです。
企業の経営者が100名ほどお集まりでした。男性がほとんどでしたが、もちろん女性もいらっしゃいました。女性もその能力を存分に発揮し、また女性らしい発想で会社を経営されている姿はとてもすばらしいものです。
最近、社会の様々な面で女性が活躍されることが多くなってきました。大変よい風潮だと思います。能力はあるのに「女性だから…」という理由で差別されることも段々と少なくなってきました。
でも、「女らしさ、男らしさ」という言葉まで「差別だ」といってしまうのはどうか、と私は思っています。ジェンダーフリーというこの活動。極端な場合、「男らしくしなさい」と男の子にいうことをも「差別だ、抑圧だ」と決めてしまう。私は男らしさや女らしさ、というのは、その国や地方における文化だ、と考えたいのです。それは文化的な性差に対する認識で、それまでを否定してしまうことは日本の文化をも否定することにつながるような気がするのです。
もちろん、発展途上国と呼ばれる国の中には女性に対してとんでもない扱いをしている国もあります。それは正すべきでしょう。しかし、今の日本に、その理屈をそのまま当てはめて男女の性差までもなくしてしまうのはどうかと思うのです。
子育ての現場にいて肌で感じるのは、やはりお母さんの、お母さんならではの深い愛情に包まれ、お父さんならではの厳しい愛情で接していただくことの大切さです。母性と父性がそれぞれ役割分担をしていただくことが、子どもたちの豊かな人間性を育てるポイントになると思っています。本能的に違うはずではないでしょうか。いくら頑張ったって男に子どもは産めないのですから…。
進歩的な方々は、時に日本の文化を「悪い」「遅れている」と決め付け、他の国の制度をそのまま取り入れよう、とされる。しかし、文化の基盤が違うのです。そこを知っておかないと、結局ひずみを生んでしまうこともあるのです。
その園長先生は、以前、ある公立幼稚園で自由保育の見学研修にいかれた時の、こんな体験をお話ししてくださいました。
ひとりの子が、水道の水を出しっぱなしにして遊びに行こうとした時のこと。何も言わない担任の先生に、「注意しなくていいんですか?」というと、「いいんですよ、あの子は水を出しっぱなしにしたかったんですから。それはあの子の自由なんです」という応えがかえってきたそうです。
「それは違うだろう、とずっと思ってきたのです」と、その園長先生はおっしゃいました。
また、公立幼稚園の元園長先生から「子どもの自由を大切にする自由保育が言われ始めた頃、ピアノの上に登って遊んでいる子をしからなかった。あれは間違いだったかも知れない、と今、少し反省しています」と、聞きました。ピアノやテーブルに載っている子に注意をしない、これがその子の自由と個性を育む。私にはとんでもないこと、としか思えません。
「赤信号では渡ってはいけません」、子どもに理屈抜きで教えておかないと事故にあってしまいます。同じように生活の基本的なルールやしつけはしっかり教えていくべきだと思います。昔の厳しすぎる行儀作法やしつけもどうかと思いますが、ファンタジーの世界だけで子どもをとらえ、接していると、反って後々子ども自身が大変な思いをすることにもなりかねません。
小学校一年生を担任している先生の相談です。この先生が居眠りしている子に注意したところ、こんな返事が返ってきたというのです。
「自分の成績が悪くなるだけだから、いちいち注意しないでください」
さらに「いびきをかいて他の人に迷惑をかけているわけではないでしょう」というそうです。
また、騒いでいる子に「静かにしなさい」というと、「先生には関係ないでしょう。僕の人生だから僕が決めます」と答えるのだそうです。小学校一年生の子どもの言葉だとは思えませんよね。
この「関係ない」というのが、最近の子どもたちを考える上でのキーワードだそうです。そして子どもたちは何かあるとこの「関係ない」という言葉を使うそうです。
いつも申し上げることですが、何事も自由に個性を大事に、と家庭や幼稚園、保育園で幼児期を過ごした子どもたち。自分のしたいようにすることが「自由」で、その姿が「個性」だという、周りの大人たちや社会環境の誤った認識がこの子たちを育てたといえなくもありません。
たしかに以前の画一教育には反省すべき点もありました。しかし、その全てが悪かったわけではありません。能力を「引き出す」ばかりでなく「教え導く」ことも絶対に必要なのです。
「はやく幼稚園が始まったらいいのになぁ。子どもについイライラしてしまう」、こんな方もいらっしゃるかもしれません。
こんな実験があります。アメリカの心理学者エルマー・ケイツ博士の実験結果の発表です。
博士はいろいろな心理状態の人たちのはく息を、液体空気で冷やしたガラス管の中に入れてもらうという実験をしました。すると次のようなことが分かったのです。
「普通の状態の人の息を吹き込んだときは、息の中の揮発性物質が固まり、無色に近い液体となる。この液体も物質も無害である。しかし、怒っている人間の息を吹き込むと、栗色のカスが残る。このカスをネズミに注射すると、神経過敏になる」
さらには「激怒している人の息のカスならネズミは数分で死んでしまう」そうです。
こわいですね。つまり怒った時には人間は有毒な物質を、自分自身の中に作っていることになるのです。そしてそのせいで体の調子も悪くなることもあるのでしょう。
これからすると子どもを「怒る」ということは、単に子どもに対しての影響だけでなく、自分自身をも痛めていることになりますね。あなたの怒りはネズミをも殺してしまう毒を自分の体内に放出しているのです。
子育ての上では子どもを「怒る」ことも必要な時があります。でも単にイライラして感情の高ぶりのまま怒るのではなく、よく言われるように愛情をもって、子どものためになるという気持ちをもって怒る、このことを心がけていただきたいと思います。
仁孝天皇御胞衣(おえな)塚
幼稚園の隣、西院春日神社は平安時代の初めに創建された古い、歴史のある神社で、以前にも紹介した病気平癒の「疱瘡石」など数々のいわれがあります。
今回は安産・子授けなどにご利益のあるといわれる「御胞衣塚」を紹介しましょう。
その昔、京都に天皇がいらっしゃった頃の話です。当時は内親王がお生まれになった時、まず吉方を占われました。そして、その方角にある神社やお寺に御胞衣(おえな、と読みます)を埋蔵され、その健やかなご成育を祈願される慣わしがありました。「御胞衣」とは胎盤、つまりお産の後に出てくる「後産」とも呼ばれるものです。
寛政十二年(一八〇〇年)二月二十一日、仁孝天皇御降誕の折、吉方にあたる当社、西院春日神社を選ばれ、御胞衣(おえな)を埋蔵されました。当時の古文書があるのですが、なかなかに大層な儀式だったようです。
この由緒にちなんで、安産や子授け、母体の健康、乳幼児の健やかな成育を祈る風習があります。
「子安石」と呼んでいる白い石に、「子授け祈願」などと書いて塚の周りに奉納、祈願される方があとを絶ちません。先日も「おかげさまで子どもを授かりました」と、御礼参りにこられた方のお喜びの声を聞きました。嬉しいことです。
現在、京都でもこの御胞衣塚が残っているのは荒神さん、若宮八幡宮など数箇所だけ。お子様の健やかなご成育を願ってどうぞまたお参りになってください。
http://kasuga.or.jp/「信仰」のページに写真を載せています。
朝の体操から始まる保育の様子をご覧になり、いろいろとお話しさせていただいたのですが、その中で、こんな事をおっしゃっていました。
「ここの子どもたちは、みんな明るく元気ですねぇ」
「人なつっこくて、物おじせず、のびのびしてますねぇ」。
いままで宮城、神奈川、埼玉、岐阜、福岡、宮崎など、またもちろん近畿一円から多数見学にみえたのですが、その保育園、幼稚園の先生は異口同音にこのようなことをおっしゃいます。
他の園では、例えば絵画の活動をするとき、「さあ、みなさん、描きましょう」というと、「先生、どうするの?」「わからない」と、先生の足元に寄ってくる子がクラスに4・5人、必ずいるそうです。でもかすがようちえんにはそういう子がまったくと言っていいほどいない、そういう姿に驚かれることが多いようです。
実は、日常の中で、「こうしなさい」「それはちがうでしょ」、いわゆる否定・強制・命令のことばが多いと子どもは萎縮してしまうのです。先の絵画の活動の例では普段子どもたちのすることに対して「先生の言ったこととちがうでしょ、こうしなさい」ということが、たびたびあるのだと思います。ですから子どもたちは、叱られたり注意されたりする前に「どうするの?」と指示を求めに来るようになるのです。
幼児期は自信をつけてあげるためにも大切な時期。あれこれ指示をしたくなる事もありますが、ご家庭でも、自分で何かにチャレンジしたり試してみたりしている時には一呼吸おいてじっとその姿を見守ってみることも大事なことだと思います。
一瞬ギョッとしましたが、「ウンがついたかな」とちょっと嬉しくも思いました。
松下幸之助さんが、ある時、「成功の要因は?」と聞かれてこう答えられたそうです。
「成功の理由には三つある。ひとつ目は、父の商売がダメになり、私はどん底の貧乏を味わったからだ。二つ目には、私は小学校中退で働き、学歴がなかったからだ。三つ目に、私は体が弱かったからだ。これが、私がここまで会社を創業発展させることができた理由だ」
上記の三つは、普通ならばどれも失敗の要因に挙げるものばかりです。
「私にも、もっと資産があったらなぁ」、「もっといい大学を出てれば出世できたのに」とか、「病気がちでなかったらもっと働けるのに」、よく聞く話です。
ところがそれを松下さんは成功の要因だといわれる。
理由を聞くと、
「どん底の貧乏だったから、お金のありがたみが痛いほどわかったし、一所懸命働く事ができた。もし貧乏でなかったら、中途半端にしか働かなかっただろう。また学歴がなかったから、どんな人のことばも先生のことばに聞こえた。もし、大学まで出ていたなら、人のことばに謙虚に耳を貸さなかっただろう。体が弱かったから、仕事を人に任せるほかなかった。もし、健康だったら何でも自分が、と思っていただろう。幸いなことに天は自分に貧乏、無学歴、病弱な体を与えてくれた」
私たちはなかなかここまで達観できないかもしれません。しかし、やはり物は考え様。砂漠で水筒に水が半分。「もう半分しかない。ダメだ」か、「まだ半分ある、さあ歩こう」か、です。
平地に板がおいてあるとしましょう。その板は長さが5メートル、幅は50センチです。
「この板を渡ってみてください」
だれでも渡れますよね。中には目をつぶってでも渡れるよ、という人もいることでしょう。
ところが、この板が、今度は深い谷底の上、落ちたらもう死んでしまう、というぐらい深い谷に渡されていたとしたらどうでしょう。きっと足がすくんでとても渡ることなどできないでしょう。長さも幅もまったく同じ板でありながら…。落ちたらどうしよう、という恐怖心が先立ってしまうに違いありません。
同じ板なのに周りの状況が変わると渡れなくなってしまうのです。
「その時、私は神様に守られている、という強い信心がある人は、周りに惑わされることなく渡ることができる、例えばこれが信仰の力です」。そう教えられました。
私たちの、日々の生活の中には、同じようなことがたくさん起きているような気がします。信仰心、神信心、などというと古くさくまた堅苦しく感じられるかも知れません。でも、周りの状況に惑わされず、素直な心で生活していく、その大きな助けになるのが神様仏様などへの信仰であれば、それはとてもすばらしい力なのではないでしょうか。
同時にまた、私たちは周りのいろんな人たちに助けられ、支えられながら生きているのだということも常に考え、「ありがたい」と感謝の気持ちをもって生活していきたいと思うのです。
ある日、大変にお金持ちの家の父親が、息子を田舎へ連れて行きました。息子に、人々が実際にどれほど貧しくなれるものかを見せようと思ったのです。
父親と息子は、田舎の大変に貧しい農家で数日を過ごしました。
田舎から帰る道中、父親は息子に「どうだった?」と尋ねました。
「とってもよかったよ、お父さん」
「人々がどんなに貧しくなれるものか、わかったかい?」父親が聞きました。
「そうだね」と息子は答えました。
「おまえはこの旅で何がわかったんだい?」
父親が聞きます。息子はこう答えました。
「僕たちの家には犬が1匹しかいなけど、あの農家には4匹いたよ」
「僕たちの家には、庭の真ん中までのプールがあるけど、彼らにはどこまでも続く川があるんだね」
「僕たちは輸入したランタンを庭に下げているけど、彼らには夜、星があるんだね」
「僕たちは、小さな地面に住んでるけど、彼らの住んでいるところは見えないぐらい遠くまで広がっているんだね」
「僕たちには、僕たちに奉仕する召使いがいるけど、彼らは他の人々に奉仕しているんだね」
「僕たちは自分たちの食べ物を買うけど、彼らは自分たちの食べ物を育てているんだね」
「僕たちの家のぐるりには、僕たちを守るための壁があるけど、彼らには守ってくれる友だちがいるんだね」
息子の返事に、父親は言葉を失いました。そして、息子はこういいました。
「お父さん、僕たちがどんなに貧しいかを見せてくれてありがとう」
私たちは、自分が持っているものを忘れて、自分が持っていないものばかりを気にしてしまいます。ある人にとってはどうでもいいものが、別の人にとってはなくてはならないものである事もあります。これはすべてそれぞれのものの見方に依っているのです。
もし私たち全員が、「もっと欲しい、もっと欲しい」といらいらするのではなく、与えられたものの恵みに感謝するようになったら…?と思いませんか。
毎日毎日、私たちに与えられてるものすべてを喜びたいですね。特に友だちを。
第一生命が募集しているサラリーマン川柳から紹介です。
http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/
わが家では 子どもポケモン パパノケモン
朝出した 粗大ゴミが 夜帰る
「粗大ゴミ」とはお父さんのことでしょうか。これはいけませんねぇ、笑ってる場合ではありません。われわれ男親としては「お父さん、おつとめご苦労さま」って迎えてほしいものです。三つ指までついてくれなくていいから。
なのに、です。
まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる
はぁ、ため息ものです。お父さんかわいそう…。
イチローの 3日分だよ わが年収
3日分もあればいい方ですよ、このご時世。
運動会 抜くなその子は 課長の子
魂の叫び!実はお父さんは、ここまで気を使って仕事してるんですよ。
そこで、お父さんの反撃。
厚化粧 ハエはとまるが 蚊はさせぬ
うーん、ジャブジャブ。まだまだ腰が引けてます。こわごわ言ってる様子。これならどうでしょう。
久々の 化粧に 子ども あとずさり
わかります、わかります。怖い時ありますよね、私たちにも。普段しないアイラインがくっきり入ってたりしたら、子どもも引いてしまうかも知れません。
続柄 あわてて「妻」を 「毒」と書き
部分やせ したい部分が 大部分
素顔みた だますつもりが だまされた
なんだか骨肉の争いになってきました。とはいえ、こういう川柳や冗談が言い合えるのは、実は幸せな家庭なんでしょうね。
確かに、多くの日本人は、別に神道の信者だから初詣に行くわけではありませんし、生まれたときは「神社」でお宮参り、結婚式は「教会」で、死んだら「お寺」にお葬式をお願いする。一神教の西洋人にはとても理解できないのでしょう。
私も、お宮さんの祈願絵馬に「仏教大学、絶対合格!!」と書いてあるのを見ると「さぞかし神様は複雑な心境やろなぁ」と思いますし、暴走族が交通安全のお守りを受けて「初日の出を拝みに行くぞ!」と走り去って行くのを見ると「どないしたもんかな」と悩んでしまいます。
でも、日本人という民族はそうなのです。正反対にあるように思えるもの、また相容れないと思われるものを一緒くたにして理解してしまう、そういう特性の民族なのだと私は思っています。
今、世界を見ると宗教的対立が戦争や内戦にまで発展していることが多い。今回のテロもそのひとつの現れでしょう。
日本人は、新しい考えが外から入ってきたとき、一時的な混乱や対立はあるにせよ、結局それらを吸収して包み込んでしまう民族なのです。これはすばらしいことです。要するに「懐(ふところ)が深い」民族なのです。そして、この懐の深さからうまれる「あいまい」の美徳が、白黒はっきりしない灰色の言い回し、控えめな表現、回りくどいやんわりとした断り方などを生んできたのです。これは「思いやり」の心から生まれた文化です。
ところがこの点が、外国人からは「日本人は、イエスかノーか、はっきりいわない」と非難されることになるのです。「世界では通用しない」のだそうです。
でも、本当は世界に向かって「これが日本人なのです」と、もっとプライドを持って堂々と発信したいと思うのです。
標記の本から子どもたちの詩をお届けします。
こづかいあげろ とみた あいな
おとうさんが しろにあかいじで
だんけつとかいた はちまきをして
「こづかいあげろ」といって
おかあさんのまわりを
ぐるぐるまわっていた
おかあさんは
しらんかおをしていた
お父さん、頑張れ!!
次は絵の得意なお父さんの登場です。
おとうさんのえ よしだ ともこ
おとうさんは えをかくのがすきです
おへやにもおトイレにもげんかんにもガレイジにも
いえじゅう おとうさんのえが いっぱいです
このあいだ
クリーニングやさんが えをみて
「ともちゃん じょうずにかいているね」
といいました
お父さん、ショックから立ち直れるでしょうか?
それでは最後の詩、です。
まね おおなか なおひと
おとうさんのまねをして
おふろのなかから
おかあさんに
「おい ちずこ ぱんつだしとけ」
とゆうたら
かおつけられた
首都ワシントンDCでは実に60%の家庭に父親がいないという状況です。そこでワシントンDCは十数年前から「プロジェクト2000」という取り組みを始めました。これは、小学校で子どもたちに「父親像を教えよう」というもの。
アメリカの小学校の教師は、伝統的にほぼ全員が女性です。このため、地域の男性ボランティアを募り、教室に来てもらう。そして彼らを通して子どもたちに、わざわざ小学校で「父親像」をおしえるのです。
男の子は家庭に父親がいない状況で育つと7歳ぐらいからギャング化する傾向が多い、というアメリカでの研究報告などを受けて始まったプロジェクトだそうですが、みなさんはどんな印象をもたれるでしょう?
もし、日本で同じようなことになったら?小学校で「父親像」を教える授業が行われるようになる社会、それが望ましい社会の姿でしょうか?
松居和さんの言葉を引用します。
「一番問題なのは、三人に一人のアメリカ人の男性が自分の子どもが生まれた瞬間から父親としての役割を果たそうとしていないということです。家庭に対する責任を持とうとしないことです。一ヶ月でも父親をやってみて、やっぱり嫌だ、うるさい、面倒くさい、それでやめるのであれば、まだ理解できます。(中略)三人に一人の男性が初めから『子育て』に関わろうとしない、ここが異常なのです」。
以前から何度かメールのやり取りをさせていただいているのですが、先日、その松居さんの講演を聴きにいきました。 アメリカを始め、海外の生活体験を交えての講演は、私たちにあたらしい気付きを与えてくれます。
アメリカでは三人にひとりの子どもが、福祉先進国家といわれるスウェーデンでは二人にひとりの子どもが未婚の母から生まれ、そして生まれた時から父親のいない状況で育つそうです。
「それなのに、そういう欧米社会の福祉を目指している日本の政策はどうかしている」と松居さんは訴えておられます。まさに同感です。
ところが進歩的文化人の方々はこうおっしゃるのです。
「だからスウェーデンでは安心して私生児を生めるのですね。ひとりの親でも充分子どもを育てていけるほど福祉が充実しているのです」
福祉の充実。大変結構なことです。「人権」に関わることをここで批難しようというのではありません。
私が問題だと思うのは、こういう国ではもはや「家庭」というところに幸せを見出すという観点がまったくなくなっている、ということです。
私たちが、生活の基盤としている家族・家庭というもの。うちに帰ったら明かりがついている、とか、歩いていると家族団欒の声が聞こえてくる、といった、素朴な幸せを、家庭に見出すことのできない社会をつくることがすばらしいことなのでしょうか?
福祉のたどり着くところを、しっかり見据えておかねばなりませんね。
「ポリオ」とは小児麻痺のこと。日本ではワクチン投与が行きわたっているので、もうすでに根絶した病気です。カンボジアという国はあいつぐ内戦で、国は乱れ、人々は貧しく、周りの国より発展が相当遅れています。そのせいもあって、まだポリオで苦しむ子どもたちがたくさんいました。
昨年、「世界からポリオが根絶した」という宣言がありました。少しでもお手伝いできたことを嬉しく思います。
さて、アンコール・ワットの近くの遺跡を訪ねた時のこと。手足のない子どもたちが私たちの周りに寄ってきます。「お金をちょうだい」といいながら。地雷がそこらじゅうに埋められている地方です。ちょっとルートを外れて遊んでいると地雷を踏んでしまうこともあるそうです。
現地の案内をしてくれている人に、「あの子たちは地雷にやられたのですか?」と聞くと、「そうとばかりは言えないのです」と答えが返ってきました。
生活に苦しむ両親が、生まれてきた子どもの手足を、わざと切る例が少なくないそうです。そうして観光地に行かせて、かわいそうに思った観光客からお金をもらわせるのだそうです。
私たちにとっては信じられない話でした。
そのとき私は思ったのです。子どもの人権、ということばはこういうところでもっと主張し、考えるものなんだ。
「学校の制服は人権侵害だ」、平和で豊かな国、日本ではそんなことがマスコミをにぎわしていた頃です。
ことばだけを聞いていると「そりゃそうだ」と思うのですが、よく考えるとおかしい。
一体、「社会」とはどういう社会のことをいうのでしょうか。この「社会進出」と聞くと、まず頭に浮かぶのが、会社などでバリバリ仕事をしている姿、働いている女性像です。だとすると、家庭で子育てに専念しているいわゆる「専業主婦」は「社会に進出」していないのでしょうか。時代遅れの女性なのでしょうか。
私は決してそうは思いません。というのも、「子育て」は他のどんな仕事より、生きがいとやりがいを与えてくれるすばらしい仕事だ、と考えているからです。
専業主婦もそれだけで立派に「社会に進出」していると思うのです。
そして、あたかも専業主婦が社会に進出していないかのように錯覚させ、「私も仕事をしなければ」と思わせるような風潮は改めないと、と思っています。
誤解のないように付け加えると、私は決して子育てと仕事を両立させている女性をダメだと言っているのではありません。だって、たとえば農業を営む家庭、それこそ昔からお父さんとお母さん、一緒に畑仕事に出かける。時には子どもを
背中におぶって、収穫したホウレンソウを洗う。
こういう家庭に「女性の社会進出」などというと、「何をいまさら」でしょう?
一方気をつけておかなければならないのが、この「女性の社会進出」を助けるために福祉を充実させる結果、いわゆる「子育て放棄」を助長すること。
ほとんどのお母さんにはあてはまらないとは思うのですが、やはりこの危険性は知っておかなければならないと思います。
というのも、こんなことばを聞いたことがあるからです。
「世の中が、子どもを生め生め、っていうから生んだの。後はちゃんと行政が面倒みてくれなきゃ」
これは違うと思うのです。こういう極端なことをいう人をたくさん生み出す社会であってはならない。
いつの世も「子育て」は何よりもすばらしい、自分をも育ててくれる仕事―もちろん両親にとって―であってほしいものです。
ゆれがおさまって表に出た。幸いにも近所の家の被害は少なかった様だが、向かいにあるひとり暮らしのおばあさんの家が完全に倒壊していた。
でもみんな自分の家のことだけに気を取られ、おばあさんのことなど気にかけている余裕などなかったそうです。
そんな中、「おばあちゃーん!だいじょうぶかー!」、そう叫びながらつぶれた家に駆け寄り、かわらを必死でのけ始めた人がいる。それは普段から「近所の鼻つまみ者」といわれている金髪の暴走族の少年だったそうです。
「その時、自分たちの家のことばかり心配して、おばあちゃんのことなど気にもかけなかった、そんな自分が恥ずかしかった。そして普段、その少年を鼻つまみ者、といっていたことにも恥じ入るばかりだった」とその人はおっしゃっていました。
確かに今、街角で見かける少年たちの姿、行動に「これでいいのか?」と思うことも多い。そして毎日のように異常な少年犯罪が起きています。
でも、少年たちが持っている若い力やエネルギー、大人がそれを発揮する目標や手本を示してあげられていないのではないか、私は最近特にそう感じています。
単に少年たちの行動を批判するだけでは何の解決にもなりません。先の例のように、何かことが起こったとき、普段偉そうにいっている大人より、少年の方がはるかにすばらしい行動をとることも多いのではないでしょうか。
あれこれ論じるよりも少年たちが将来に夢や目標を持ち、それにエネルギーを傾けていける、そんな社会にしていく事が一番必要なのでしょう。
よく通る道なのですが、改めてじっくり石垣を見るとその見事さに驚かされます。それこそ大きさも形もまちまちの石が、ものの見事に組み合わされ、そして一体となって城壁を支えている。セメントなどない時代に作られたその石垣は、それぞれの石がお互いを支えあって全体を形作っているのです。
ふと、西洋の城に想いを馳せました。そうすると頭に浮かぶのはきれいに同じ形に揃えられた石が、整然と積み重ねられた城壁の姿です。
「日本人は個性がない」。よく耳にすることばですが、そうとばかりはいえないのではないか。石を同じ形に切りそろえるのではなく、自然の形を生かし、しかも大きい石の方が小さい石より大切、というわけでなく、それぞれがそれぞれの必要とされる場所、適材適所に積み上げられている。小さい石ひとつが外れると、全体が崩れてしまうこともあるそうです。
これは、それぞれの個性を認めていく風土がなければ生まれてこない発想だと思います。
子育て・教育に置き換えて考えてみますと、子どもの能力というものを、成績や技術や知能指数などで一律に計るのではなく、城の石垣のように、「大小優劣でなく、それぞれにそれぞれの持ち味があり、役割がある、それが個性というものだ」、と考えていきたいのです。
大小さまざまな石があって、そしてそれぞれが支えあい、役割をもち、全体を形作っている。世界平和というと大層な話ですが、家族、幼稚園や学校、社会、世界の国々にとって、お城の石垣はとてもよい手本になるなあ、自戒の念とともにそう思った一時でした。
その時の救出作業で、おちた岩盤を除くために、ダイナマイトが使われていました。コンピュータを使い、科学の粋を集め、専門家が計算した上で実施されていましたが、計画どおりにはなかなか岩盤は砕けません。とても歯がゆい思いをしたのは私だけではないでしょう。
しかし、自然の力はそれを一瞬で起こしてしまうのです。地震、台風、雷などもそうです。
自然のもつものすごいエネルギー。時折実感するのですが、普段、私たちはそれをすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。というより、自然をあたかも征服しているかのように思い上がっているのが現代の人間なのかもしれません。
私たち人間はやはり自然の一部なのです。そして「生かされている」という心で自然と共存しなければ、と思います。
「宗教心」というと硬い感じがしますが、私は幼児期に神様や仏様に手を合わす、ということを日常生活の中で身につけてほしいと思っています。例えば隣のお宮さん、春日さんに毎朝体操のあとお参りをしていますが、こういうことから大自然の力に対する畏敬の念、生かされているという謙虚な気持ちが生まれてくるものだと思うのです。
みなさまもぜひ、朝お子様と登園なさったとき、お参りしてみてください。
「今日も一日みんなが元気に過ごせますように…」、
感謝の心、思いやりの心もきっと育まれてくることでしょう。
「教育とは流水に文字を書くような果かない業(わざ)である。だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」
これは特に私の心に深く残っていることばです。
流れる川の水に文字を書く、いつになれば書けるのかわからない、気の遠くなるような作業です。教育・子育てとは「明日にはすぐ成果がでる」というものではありません。土を耕し、種を植え、肥料をやり世話を続ける、そして長い年月の後、成果として実をつける、本当に長い目で見なければならない業(わざ)だといえます。
そのような果かない教育・子育てという作業に、真剣に取り組む。果かない作業だから、といっていいかげんに取り組むのではいけない、岩の壁に文字を刻むような真剣さが必要だ、というわけです。
子どもの教育に対しては、「まあ、そのうちに」とか、「適当でいいや」とかそういう気持ちになりがちです。
時には反対に「あんたは何回ゆうてもわからへんな!」、こういうことばが思わず口をついて出てしまいます。
成果がすぐに見えないためにいいかげんになったり、焦ってしまったり。
私たちも園児の成長を考える時、「焦らず長い目で見る、今日明日という短い期間で結果を求めるのではない」ということをいつも意識しつづけています。
「流水に文字を書く」のが子育てという業だ、そんな風にこころがけていただければまたお子様への接し方が変わってくるように思います。
この神社ができたのは、平安時代のはじめ、天長10年、西暦でいうと833年。当時の淳和天皇が、位を譲られこの西院に「淳和院」という離宮をつくられた時、守り神として奈良の春日大社の神々をまつられたのが始まりです。
淳和院はその後廃れてなくなりましたが、神社だけは現在まで絶えることなくこの地にまつられてきました。
さて、お宮さんにはいろんないわれや信仰があります。いくつかご紹介しましょう。
つい先日、京都新聞の記事にもなりましたが、淳和天皇の皇女、崇子内親王の疱瘡を治したという霊石、「疱瘡石(ほうそういし)」が見つかりました。この石には、内親王が疱瘡にかかられた時、祈願されたところ、代わりに疱瘡を生じた、そしてたちどころに内親王の病が治った、という故事があります。
それ以後皇室はじめ人々から「病気平癒の疱瘡石」と信仰を集めて拝まれ、都に疫病がはやる前には必ずこの石の表面がぬれたそうです。
明治時代以降、その行方がわからなくなっていたのですが、今回ある書物の記述から「内陣(社の中)」にあることがわかり、今後一般に公開することになりました。
また、境内に御神木の「梛(なぎ)の木」があります。他の木と違い、葉脈がたてに通っている珍しい木で、この葉は災難除けのお守りになります。
また、「女人、鏡の下に敷けば即ち夫婦の仲、むつまじきとなり」、つまり夫婦仲がよくなる、といういわれもあります。お試しください。
「電車の中から外の景色を見る時は、必ず靴を脱ぎなさい」
というのは、もし前に誰かが立たれたとき、靴を履いているとその人のズボンやスカートが汚れるかも知れないからです。みなさん方はいかがでしょう。こうは教えられませんでしたか?
私は、これは常識だと思っていましたし、今でもそう思っています。そして誰もがそう教えられてきたものだと信じていました。
ところが、そうではない、と知って驚きました。今、電車に乗っていて、靴を履いたまま外の景色を見ている子どもに、「靴をぬぎなさい」と注意をすると、隣にいる母親が、うちの子育てに口を出すなといわんばかりににらみ返し、
「そんなん、自由でしょ」
などということがあるのだそうです。
「おじさんが怒らはるし、あんた靴脱ぎ」
というのはまだましな方らしいのです。「おじさんが怒らはるし」ではなくて「すみません、気がつかなくて…」でしょう、間違っているのはこの親の方なのですから。
「何の権利があってうちの子を叱らはるんですか」とか「うちの子育てに口出さんといてください」、こんな言葉が親から聞かれるようになった昨今。これも自由や個性や権利という耳障りのいい言葉の上っ面だけを理解していることによる弊害なのでしょう。
自由は「規則」をまもることによって、個性は「基本」があって、権利は「義務」を果たすことによってこそ成り立つ、このことを私たちは忘れてはならないといつも考えています。
たまにお母さん方から出るこの言葉。でもそんなはずはありません。実際、お子さんと私たち、一年前と比べてどちらが成長したでしょうか?
保護者のみなさまや私たち大人は、せいぜいしわが1本増え、体重が増えて…というぐらいではないでしょうか。それに比べて子どもたちといったら身体的な面、知識、言葉の数、運動能力などあらゆるところで大きく成長しています。
要するに、その日々の成長を大人の側が見つけられないだけなのです。
そして、いつもお願いしているように、子どもをほめて育てていただきたいのです。
「でも思わずしかってしまいます」とおっしゃることでしょうが、私は「絶対しからないでください」とお願いしているわけではないのです。ただ、「子どもをほめよう」と「意識」していていただくことが大切だと思うのです。その気持ちを持ってしかった時とそうでない時とはお子様への伝わり方がまったく違ってきます。そして、「しまった。今のはしからなくてもよかったのに…」と反省されることもとても大切なことです。
「お母さんが子どもをほめようと意識されているのとそうでないのは本当に大きな差があるね」、
職員といつも話していることです。
「園長先生、ぜひこのことを保護者の方に伝えてください」、
今回は主任教諭、橋上のこの言葉でテーマが決まりました。
「子どものいいところを見つけてほめよう」と、改めて意識して、「ほめるつもり」でお子様と接していただきたいと思っています。
くわしい内容はほとんど覚えていないのですが、あるシーンだけが鮮明に記憶に残っています。
そのとき出演されていたのは瀬戸内寂聴さんでした。
話題が「援助交際」におよび、ある女子高生からこんな声があがりました。
「そんなの、自分の体なんだからさぁ、どー使ったって自由じゃん、誰にも迷惑かけてないしぃ」
会場のほかの女子高生からは拍手と喝采がわきおこる。私は、瀬戸内さんがどう応えられるか、と息をのんで画面を見つめました。
が、その答えは今ひとつ判然としない、「親に生んでもらった体、自分だけのものというのは間違いよ、大切にしないとね…」とかいうような抽象論に終わりました。
私は瀬戸内さんを責めるつもりは毛頭ありません。なぜなら浅学非才なこの私、同じことを投げかけられたらもっと答えに困るからです。「そんなもん、キミら、あたりまえやないか」といって言葉につまるぐらいが関の山です。
それは「理屈以前の理屈ぬき」の問題だからでしょう。なぜ挨拶をするか、親切にしてもらったらなぜお礼を言うか。こんなことはあたりまえのこと、理屈ぬきのことです。
カビのはえた常識論を振り回すつもりはありませんが、あたりまえとして身につけておいてほしいことはあたりまえに身につけておいてほしい。
「そんなんしたら神さんがバチあてはるで!」
こんな言葉が「不合理」と、ひとことで片付けられない世の中であってほしいものです。
1 挨拶をする。
2 返事はハイとはっきり元気に。
3 靴は揃える。靴箱に入れる。
4 立ったら椅子を入れる。
これは森信三先生という偉い実践哲学者の言葉を拝借したものです。森先生は3と4を一緒にして、「しつけの三大原則」とされているのですが、かすがようちえんでは分けて使っています。
この「四大原則」。簡単にまとめられていますがなかなか意味の深いものなのです。
まず、1の「挨拶」ですが、これはいうまでもなく、人間生活の基本、人と人とのつながり、コミュニケーションのきっかけですね。挨拶がしっかり元気にできる、これは基本中の基本でしょう。
次に2の「返事」。人の話を聞く、人の呼びかけにはっきり答える。挨拶についで大切な態度です。
「なに?」「はぁ?」、こんな返事では人の話を聞く態度は到底できません。
次の3、「靴は揃える…」。日本では靴を脱ぐ、はくというのは内と外のけじめです。靴を揃えることによって「内」と「外」の気持ちのけじめをもしっかり身につけることになるのです。
最後に4、「立ったら椅子を入れる」。椅子を入れる動作は立つ、座るの切り替えです。このことで「動」と「静」の気持ちのけじめをつけることになるのです。
森先生は「これだけをしっかりしつけられれば他のことは自然と身についてくる」とおっしゃいますが、説明を聞くと「なるほど」と思わされるものがあります。
どうぞご家庭でもこの四大原則、実行してみてください。もちろん大人も一緒に、です。
「出鼻をくじくな、やる気に水をさすな」
というものがあります。
創業前に勤めていた会社で、苦心に苦心を重ねて作り上げたソケットを、
主任に「ダメだね」と一言で片付けられ、悔し涙を流した松下さん。
彼はそんな経験もあって次のようなことを心がけてきました。
「事業を起こしてから、従業員のやる気を尊重し、たとえば、何かを命じるときも、
『このようにやろうと思うのだけれども、君はどう思う』と、部下の自主性が加わるように
導いてきました。
松下は、『人間というものは、もともと働きたい、人のために役立ちたいという気持ちをもっている。だから部下に働いてもらうコツの一つは、部下のやる気に水をささないこと、つまり部下の自主性に従いつつ導くことだ』と言います。(中略)『出鼻をくじくな』ということは晩年の松下が幹部にたびたび訴えていたことでした。
企業だけでなく、家庭における子育てにも大切な心得ではないでしょうか」(PHP谷口全平氏)
いつもお話しているとおり、幼児期は人格形成の上でとても大切な時期です。
この時期に、両親をはじめまわりの大人から、出鼻をくじかれず、やる気に水をさされることなく
上手に導かれた子は、きっと前向きで積極的な子どもに育つことでしょう。
さらには同時に「思いやりの心」をしっかりもった子に育つに違いありません。
なぜなら松下さんがおっしゃるように、人間がもともともっている、
「人のために役立ちたい」という気持ちをも育てることになるからです。
少し長いのですが、じっくり読んでみていただきたい内容です。
幼児期の「道徳教育」やしつけの大切さは何度もこのコラムの中でもお話してきました。
本当に「ようやく」という印象です。
これを機会に今まで「自由放任・わがまま助長保育」を行ってきた幼稚園が、誤りに気づき、その保育を改めてくださることを心から望んでいます。特に京都は保守的で、「自由保育幼稚園」が多いものですから。
平成12年7月26日 産経新聞「主張」欄より
「幼稚園教育」 間違い多かった自由保育
文部省の幼児教育に関する研究班は幼稚園教育について、従来の「自由保育」を強調した考え方を改め、「道徳性の芽生え」に重点を移した中間報告をまとめた。
過去の誤りを認め、軌道修正した点を評価したい。
自由保育の考え方は、平成元年に改定され今年3月まで施行された旧幼稚園教育要領に盛り込まれていた。
幼児の主体的活動を促す教育をうたい、自発的な遊びや一人ひとりの特性を重視したものだ。
だが、幼稚園教育の現場では、その自由保育が行き過ぎた結果、園児が好き勝手にふるまう傾向が強まったと云われる。
机の上に乗ったり、階段の手摺りを滑ったりしても、注意しない先生が増えた。ブランコや滑り台でも、園児が順番を守らなくなったという。
こうした態度が小学校に持ち込まれ、学級崩壊の一因になっていることを多くの教育関係者が指摘していた。
中間報告は自由保育について「一部の幼稚園では、その趣旨を誤解して幼児を放任する保育が行われた」としたうえで、4月から施行された新幼稚園教育要領が求める道徳性の芽生えの重要性を改めて強調している。
これまで自由保育に重点を置いていた幼稚園は、出来るだけ速やかに、新教育要領や中間報告に沿って指導方法を改めて欲しい。そして、小学校とも連携し、学級崩壊などをくい止める為に力を合わせるべきである。
われわれは自由保育の教育論が求める幼児の主体的活動や自発的な遊びを全否定するつもりはない。だが、幼稚園では、集団生活のルールや善悪の判断力を身に付けさせる教育が基本である。まず、悪いことをしたら叱り、良いことはほめる。朝のあいさつや食事のマナー、先生を敬う態度も教える。主体性や自発性の育成は、こうした基礎教育を行ってからの話である。
中間報告は幼稚園に対し、「保護者自身が保護者として成長する場」としての役割も求めた。続発する少年の凶悪犯罪防止策として、「親の再教育が必要だ」ともいわれる。
保護者側もただ、わが子を幼稚園に預けっぱなしにするのではなく、保育参観や保育参加を通じ、子育てのあり方を互いに学びあうべきである。
さらに、忘れてならないのは、幼児教育の責任はまず親にある、ということだ。かつては、子供が小学校に入る前のしつけは、主として父母や祖父母が行ったものだ。
核家族化が進み、共働き家庭が増えたこともあって、昔のようにはいかないかもしれないが、もう少し、子供のしつけに熱心になってほしい。
階段から降りてこられるその方の様子がおかしい。同行されていたもうお一人がおっしゃるには、
「車内で急に心臓が痛くなられたのです」
そこで私は二人を車に乗せ、とある救急総合病院へ急ぎました。
救急の受付で事情を話し、すぐに診察をお願いしました。
ところがです。その担当の看護婦さんが
「あちらの何番窓口で手続きをしてください」
とおっしゃるのです。
さすがの私も「とにかく一刻も早く診ていただきたい」とお願いしましたが、
ガンとして聞き入れてもらえません。
しかたなしにその窓口へ行くと10人余りの一般外来の方が並ばれている。
隣にもう一つ受付があるのに、です。マクドナルドなら、「お並びの方、こちらへどうぞ!」という場面です。
この病院には病院の事情があって、それぞれの職員さんは一所懸命自分の職務を
こなしていらっしゃるのでしょう。病院とマクドナルドを一緒にする私がおかしいのかも知れませんが、
「心臓の具合が悪い」と救急で入ったにもかかわらず、この対応では首をかしげずにはおられません。
そういえばちょっとした風邪などでも1時間以上待たされる、ということもざらにあります。
何事もサービス優先するべきだとは思いません。しかし、どうも「こちらは診てやっているんだ」
という意識が伝わってくるときが多くあります。
常々私は職員に、決してお子様を「預かってあげている」という意識ではいけない、
「預けていただいている」という気持ちでいなければならないと話しています。
それでこそ保護者のかたも「預かってもらっている」と感じていただけるし、
そこから信頼関係も築いていけるものだと思うのです。
その動機自体にみなさんも驚かれたことでしょう。しかし私は今後、この種の考えられないような事件がどんどん起こってくると思っています。
その要因は家庭でのしつけ、幼稚園や保育園また学校教育、さらには社会環境などにあると思いますが、それにもまして大きな影響を与えているのが「ファミコン」や「テレビゲーム」だと考えています。それも殺人や格闘の要素のあるものの影響は甚大でしょう。
以前、「大変精密に出来ている脳にもひとつだけ”欠陥”がある」とお話したことがあります。
一例を挙げましょう。梅干を想像しただけで唾が出てくる、誰しも経験のあることです。つまり脳の「欠陥」とは「実際に体験したものと、想像したものとの区別ができない」ということなのです。
この「欠陥」をよいほうに使っている例がいわゆる「イメージ・トレーニング」と呼ばれるもので、スポーツ選手などが行っているという話はよく耳にされることと思います。
ところが「殺人・格闘ゲーム」も、繰り返し遊んでいるうちに、そのイメージが潜在意識の中に深く入りこみ焼き付いていってしまいます。一種のイメージ・トレーニングを知らず知らずのうちにやってしまっていることになりかねないのです。殺した相手がリセットボタンでまた簡単に生き返ってくる。ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界とリアリティー(現実)の世界がごちゃまぜになって混乱してしまったとしても仕方ありません。
とくに人格の基礎づくりの幼児期にはこの手のゲームは避けてほしい。余計なお世話と言われようと、これは私の心からのお願いです。
作っていくうちに指を切ったりもしましたが、「こう持って、親指で押すようにするんや」などと父に教えてもらいながら、だんだんと小刀の使い方がうまくなり、指を切ることもなくなってきました。
現在の教育の現場を考える時、私はいつもこのことを思い出します。
何か問題が起こった時、
「これが原因だから、その原因をなくせばいい」
という発想だけで処理しようとすることがとても多いように思われるのです。
たとえば小刀で作業中に誰かがケガをした。保護者の方からクレームが来る。
「じゃあもう小刀を使う工作はやめよう」
という短絡的な発想です。
私はこれでは本当の「教育」ではなく、単なる責任逃れの「運営」になってしまうように思います。小刀でケガをする子もいるでしょう。でもまず、正しい使い方をもっとうまく教える方法はないか考える。そしてケガをしないで使えるように教えていく、同時に保護者への理解を求めていく。これこそが教育のあり方だと思うのです。
教育をする側が、原因を取り除くだけの簡単な方法でリスクを避け、安全地帯に逃げ込むのはあまりに無責任に思えるのですが。
幼稚園にも、またご家庭での子育てにも同じことがいえるようにも思えます。赤ちゃんだって何度も転びながら歩き方を覚えるのですから。
さて、今年からいよいよ水曜日も午後3時までお預かりすることになりました。これは以前にお知らせしたとおりのさまざまな要因からです。
しかし、保護者の皆様にぜひぜひ分っていておいていただきたいのは次の点です。
この水曜午後保育を始めると、職員のさまざまな保育準備時間にしわ寄せがくる、ということなのです。実際いままで、水曜の午後にまとめて準備したり、こなしていたことができなくなってしまいます。その上、土曜日の午後に残ってやることも殆どでした。
それがわかった上で今回「始めてみよう」と実施することに全員で決めました。
というのも何より「子どもたちのため」によいこと、を最優先に考えたからです。家に帰っても「ゆとりある生活」からほど遠い「ファミコンづけ」の子どももいると聞きます。もちろん昔のように勝手に外へ出て安全に、自由に遊べる交通事情ではない。それなら少しでも幼稚園という安全な環境で、大切な幼児期の時間を過ごしてもらいたい。これが私たちの心からの願いです。
ましてやこのことによって手抜きをしようなどとはまったく考えていません。それを補うためにはどうしたらいいか、もっとよい幼稚園にするにはどうしたらいいか、を一所懸命考えているところです。
どうぞみなさま、園長の点前味噌で勝手なお願いですが、すばらしい職員に励ましの言葉をかけてやってください。時間的に無理なことも出てくるでしょうが、どうぞそこは精一杯やっていてのこととご理解いただきたいと心から願っています。
私たちの子どものころもそうでしたね。そして文字を読むのと書くのを同時に教えられました。
たとえば「白」という字を「しろ」と読むのだということと「白」と書くことは同時に教えてもらいました。これを「読み書き同時教育」といいます。
でも、本当は読む能力と書く能力はまったく別もの。みなさんも読めはするけど書けない文字がきっとあるはずです。「ゆううつ」なんていう字、書けますか?でも読むことはできるでしょう。
漢字というものは記号なのです。子どもにとっては分解された文字である「ひらがな」より、そのもの自体で意味を持つ「漢字」の方がおもしろくて覚えやすい。「やま」より「山」のほうがイメージしやすいのです。大人でも同じです。ためしに次の文を読んでみてください。
きしゃのきしゃがきしゃできしゃした。
どうです、まったく意味がわかりませんよね。それを漢字まじりで書くと、
貴社の記者が汽車で帰社した。
これならすぐに意味がわかります。
このように大人も子どもも関係なく、漢字を記号ととらえ、意味をイメージとして理解しているものなのです。
ですから、まずはひらがなからの国語教育、また読み書き同時教育もあまり理にかなったものとはいえません。
かすがようちえんで、名前を漢字で記したり、漢字絵本を取り入れているのはこのような「石井式漢字教育」の考え方から。
子どもたちの発達に合った国語教育へと見なおされるようになればいいですね。
あなたのおかげで少し優しくなれました あなたのおかげで友だちたくさんできました あなたがいてくれてありがとう(母)
「お母さん、メッチャ好き」ただその言葉がうれしくて 「お母さんも、メッチャ好き」と抱きしめてしまう私です(母)
ママ、ママと まとわりつく子 抱き上げた ほほの柔らかさに 腰痛を忘れる(母)
以上お母さんの作品です。腰痛が「ひどくなる」ではなくて、「忘れる」ところがいいですね。
お母さん、僕が大きくなって ラーメン屋さんになったら お母さんが何杯ラーメンを食べても 10円にしてあげるからね(息子より母へ)
がんばって立派なラーメン屋さんになってほしいものです。ついでに私も10円にして!
最後にお父さんの作品をふたつ。
「なんで昨日のうちにしとかへんの!」 時間割合わせる息子に向かって アイロン片手に君が言う ぼくのワイシャツも昨日のうちにお願いします(父)
私からもお願いします。
バレーボールをしている妻 寝ている間も練習してる バレー部はそんなにきびしいか?(父)
うちのバレー部はどうなんでしょう?
今になってもあの麻酔の「チクッ」という瞬間だけは緊張します。でもそれなしでの治療を想像すると本当に麻酔はありがたいものです。
さて、あるとき、こんなことばを聞きました。
「人に動いてもらうには、まずよいところを褒めること。それから悪かったところを具体的に言ってあげるようにしなさい」
そうでないと、非難ばかりになって、相手は本当に「やろう」という気をおこさないそうです。
ご主人のために「今日はこった晩ごはんを」と張りきって作った料理、それを口にしてひとこと、
「なんやこれ?」
これでは二度と作る気が起きませんよね。せめて、「すごいね、こんな料理はじめてやね。難しかったやろ?」ぐらい言ってほしいものです。髪型をかえたとき、ちょっと時間をかけてお化粧をしたときも、「ええやん」ぐらい言ってほしい。それから「こうしたほうがええんちゃう?」と言われると「そうかな」と素直に聞けもするというものです。
考えてみると、「褒めことば」というのは歯を抜く前の「麻酔」のようなものかもしれません。麻酔なしで歯を抜いたり、神経にさわるなんて考えただけでぞっとします。
子どもを叱る前に、まず「ことばの麻酔」をかけておく。そう考えると褒めることの意味がさらにわかりやすくなるかもしれません。
「先日のことですが、ある看護学校で講演をしました。講演のあと、そこの副学院長が『住職のお話の中には、人と人との出会い、という言葉がたくさん出てきますね』とおっしゃりながら涙を流されるんです。どうされたのですか、と聞くと『大分でお世話になった警察官の方を思い出したんです』と言われる。それは、こういう話なんです。
一昨年の五月のことです。娘さんが高知県内で水死したとの訃報を受け、身元確認と遺体引き取りのため、ご夫婦で高知へ向かわれた。大分県の佐伯市からフェリーで高知へ渡るため、車で出発されたのですが、大分県の地理が分からないため、午後九時ごろ、大分南署を訪れたそうです。そこの警察官は、事情を聞くと早速、出港時間を確認してくれたが、その日の最終便までに二時間ぐらいしかなかった。
そこで二人の警察官が『この辺の道路はわかりにくい。道に迷ったり、事故に遭うかも知れない』と、一人が同署のパトカーで先導し、もう一人は副学院長ご夫婦の車を運転し、途中まで案内してくれたそうです。
数日後、私は大分県警に講演に行ったので、その二人の警察官に会って話をしました。するとその警察官はこう言ったんです。『われわれの仕事は、人と人との出会いを、損得で考えたらできないんです』と。」(南蔵院、林覚乗著「心ゆたかに生きる」より)
私は別に警察の回し者ではありませんが、一方でこのような心で人と接し、また命がけで職務にあたり、殉職されている警察官が何人もいらっしゃることも忘れてはならないと思うのです。
あるお母さんから最近、実際私が聞き、耳を疑った話です。
どんな教育的配慮があるのかはわかりませんが、これでは自由を育む教育を通り越して動物の飼育と変わりません。
これほどまででなくても「お弁当を食べても食べなくてもいい、いつ食べてもどこで食べてもいい。それでこそ個性豊かで自由な子どもが育つ」という教育をしている園もあります。
「もう少し遊んでいたいけど、我慢して片付けて、手を洗ってみんなでそろって『いただきます』をする」。わたしは幼児期にこそ、我慢する体験や、こういう生活のルールを身につけさせてあげるべきだと思っています。
さて、次に問われてくるのが「どのように」しつけるか。「躾」というとどうしても「厳しく叱りつけて、強制的に」、というイメージがつきまといますが、私はむしろできるだけ「褒めて」しつけるべきだと考えています。できたこと、たとえば先の例でいえば、我慢して片付けられたら「ちゃんと片付けられたね」と褒めてあげる、そんな繰り返しの中でしつけていく。
時には叱ることも必要でしょうが、今度はしつける大人の側の我慢が問われることになるのかもしれません。
「天才を除いて個性には限界があると思うので、個性の伸ばし方を教えるためにも『型』が必要である、とぼくは考えています」
狂言の演技のポイントは「型」にあります。「型」とは、数百年かけて洗練されてきた細かい動きやせりふまわし、間合いを決めた約束事のこと。
「何もないのにいきなり『個性を伸ばせ』というのは無理だと思うのです。個性の伸ばし方として、方法論として『型』がある」
幼児教育の世界では「一人ひとりの個性を大事に」「子どもの主体性を育てる」「遊びを中心とした」「のびのびと、子どもの思いを大切に」などの耳ざわりのいいことばを掲げ、「躾」などは押し付けだと排除し、一見「自由」で「個性を大切に」しているかのように見える「放任保育」「わがまま助長保育」がはびこっています。
私は前述の、野村萬斎さんのことばの中に「躾」や「礼儀作法」の大切さを感じました。
子どもの思い、個性を大切にすることはもちろんですが、その前にやはり大人の側が「教える」ことも必要となってくるのではないでしょうか。
「躾」「礼儀作法」は、いくら待っていても子どもの中から出てくるものではありません。まず、ルールとして「教えしつける」ものでしょう。それは狂言でいう「型」とおなじだと思うのです。個性とは、型ができた上に、さらに上積みされていくもの。ルールのない自由は決して認められるものではありません。
「教育」を放棄した幼児教育に、そろそろ学級崩壊というレッドカードが出始めています。
孔子の論語の一節です。四月からルーティーンに取り入れています。
以前から、論語をとり入れている幼稚園の例をいくつか知っていました。ある幼稚園は教室中「論語」だらけ、しかも「返り点」も何もない漢字ばかりの、いわゆる「白文」というやつです。
私は「これはやりすぎだな」と思っていました。 しかしあるときこんなことばを聞いたのです。
「どうして論語が二千年の間、人々に読まれてきたのか。それは本物だからです」
孔子が生きていた時代は今から二千五百年前。そしてその孔子の教えをまとめた「論語」ができたのは少なくとも二千年前です。それから現在まで、それぞれの時代の人々に愛されてきた論語は確かに価値のある、本物なのでしょう。
たとえば十年前のベストセラーがいまだに人気がある、という例は本当にまれです。それが二千年となるともう気の遠くなるような話、これは本物に違いありません。
あの湯川英樹博士は五つか六つのころ、おじいさんに論語などの素読をさせられたそうです。意味もわからず繰り返していた論語。
「私はこのころの漢籍の素読を、決して無駄だったとは思わない」。
後に湯川さんはそう書いていらっしゃいます。
大人の本を読み始めるとき、文字に対する抵抗は全然なかった、復唱するだけで知らず知らず漢字に親しみ、なれてしまっていた、そして人生を生きていく心の基盤を作ることになったというわけです。
この「論語」。今では子どもたちのお気に入りのひとつになっています。
少子化、高齢化社会への対策として、「女性が安心して子どもを生み、そして働ける社会環境をつくろう」という声が高まっています。そしてさまざまなところで「子育て支援」を実施することが求められています。
では、私たち幼稚園ができる、そしてやるべき「子育て支援」とは何かをハッキリとさせておきたいと思います。
よく、実施例として「預かり保育・未就園児保育」があげられ、「これこそ社会のニーズにかなった子育て支援策」といわれています。
しかし、私は違うと思います。
「子育て支援」の目的は、決して、単純に「楽に子育てをしてもらう」ことでもなく、お母さんの子育ての負担を軽くするものでもないと考えています。
本当の「子育て支援」とは、お母さんに「子育てって楽しいな」と思ってもらえるようにすることです。
これをハッキリと認識しておかないと、単なる「子ども預かり業」になってしまいます。
お母さんのニーズを何でも「ハイハイ」と聞いて満足してもらうことによってお金儲けや園児獲得につなげていく、この姿勢は間違っています。
私たちは、時にはお客さんにあたるお母さんに「これでは困ります、こうしてください」とクレームをつけることも必要になる仕事をしているのです。決してすべてをお母さんにとって「便利なように、都合のいいように」対応していく仕事ではありません。
お母さんとコミュニケーションをとりながら、時にはぶつかり合いながら、「子育てはしんどい」と思っていたお母さんが「子育てって楽しいな」と実感してくだされば、さらに「もう一人ほしいな」とまで思ってくださればそれが幼稚園のできる、一番の「子育て支援」だと思うのです。
いろいろなサービスをしていくことはこれからも必要になってくるでしょうし、「預かり保育・未就園児保育が絶対だめ」といっているのではありません。私がいいたいのは、このことがわかってやるのと、お母さんのニーズがあるからといって何でもかんでもやるのとでは大きな違いがあるということなのです。
「本当の子育て支援とは、『子育てって楽しいな』と思ってもらえるようにかかわっていくこと」
この認識を私たち幼稚園教諭の、少なくともかすがようちえんの共通認識にしておきます。
では、「積極的な心構え」を育てるために、どのような教育をしているのか、をお話します。
まず、前回触れた、習慣のできるプロセスを思い出してください。
「ある出来事」に対してとった「特定の行動」が「満足行く結果」を生んだら、それを繰り返すことによって「習慣」が出来上がります。
子どもが新しい課題、たとえば鉄棒で「逆上がり」にチャレンジしたとしましょう。うまく行ったらまず自分が満足します。その達成をまわりの大人が見逃さず、まず認めてあげる。そして褒めてあげる。これによって子どもは「次もやってみよう」と、単に鉄棒だけにとどまらず、「新しい課題」に進んで取り組む心構えを作り始めます。
でも大切なのはうまく行かなかった場合。
「なんでこんなことできひんの!」
と、しかるのではなく、できたところまでの成果を十分認めて、褒めてあげることが、実は大切なのです。
たとえば、10のことを言って、5できたらどうするか。こんなとき、「なんで5しかできひんの!」としかるか、「5もできたね、あとこうすればもっとうまくできるよ」といってあげるか。この違いは子どもの「心構え」を育てる上で、大きな違いを生みます。
かすがようちえんでは全職員が子どもたちの達成を「褒め、励まし、認める」ことばがけを徹底しています。日常の生活の中で、大きな達成はもちろんのこと、ほんの小さな達成でも見逃さずに認め、褒めていくのです。
一言でいえば「いいところを見つける教育」。実はこれが「積極的な心構え」を育てる上で一番大切なポイントなのです。
かすがようちえんでは「積極的な心構えを育てる」ことを教育の柱のひとつにしています。
かすがようちえんでは「積極的な心構えを育てる」ことを教育の柱のひとつにしています。
では「心構え」とはなんでしょうか。今回はこれについてお話します。
人は「ある出来事」が起きると「特定の行動」を意識してとります。そしてその結果が満足の行くものだったとしましょう。すると、次に似た「出来事」が起きたときにはまた同じ行動を選ぶものですよね。
これが何度も繰り返されると、このプロセスをひとまとめにしてしまいこみ、その状況がいつ、どこで再び発生しようとも、無意識に、自動的にその「特定の行動」をとるようになります。
そう、これが「心構え」です。これでお分かりのように「心構え」とは、「考え方の習慣(くせ)」に他ならないのです。
ですから「積極的な心構え」をもった子は、難しそうなことに出会っても「やってみよう!きっとできるに違いない」と取り組みます。でも「消極的な心構え」の子は「ぼくにはできない、できるわけないからやめとこう」と反応します。
こわいのは、先に言ったように、「無意識に、自動的に」必ず反応してしまう点。だからこそ「習慣(くせ)」なのですが、いったん身についたらなかなか変えられないのもこの「心構え」の特徴。
しつけや基本的な生活習慣と同じくこの「心構え」の基礎もやはり幼児期に出来上がってしまいます。この点は今までの幼児教育で見逃されてきた大切なポイント。
そこで、かすがようちえんではSMIの理論に基づいて、子どもたちの「積極的な心構え」を育てる教育をしているのです。
次回はその教育法についてお話します。
今年度から、ルーティーンの最初にみんなでいう「今月の心構え」の後に、「生活の四大原則」を加えることにしました。
1 挨拶をする。
2 返事は「ハイ!」とはっきり元気に。
3 靴はそろえる・靴箱に入れる。
4 立ったら椅子を入れる。
これは、森信三という高名な先生のお考えを拝借したもので、先生は「しつけはこれだけやれば十分」とおっしゃいます。
「こんなことだけでいいの?ほかにもいっぱい大事なことがあるのに…」 そう思われるかもしれません。実際、私もそう思っていました。
でも、ある時、森先生のお弟子さん、綱沢先生がこうおっしゃったのです。
「これだけ?と思われるかもしれません。しかし振りかえってみると、あれもこれもと思ってしまって、この四つのことさえ十分にしつけられていないことも多いのではないですか?ですからまずはこの四つをしっかりしつけようと集中することが大切です」
なるほどその通りです。あれも大事、これも大事と注意が散漫になって、結局何も十分にしつけられていないことも多い。でも、この四つをしっかりとしつけようと心がけているとほかのことも、いつの間にか自然と身についてくるものだとおっしゃいます。
反対に、この四つさえしつけられないのに、ほかのことが十分にしつけられるわけがない、というのも本当でしょう。
ご家庭でもこの四大原則をまずしっかりと身につけられるよう心がけてくださいね。
ご入園・ご進級おめでとうございます。職員一同心あらたにがんばります。よろしくお願いします。
昨年、「園是」をまとめました。まったく新しく、というわけではなく、今まであったものをまとめて整理したものです。
「一体、何のために幼稚園をやっているのか」「そして、どんな子を育てたいと考えているのか」などをハッキリとさせなければならない。単に園児をたくさん獲得したい、とか、経営をうまくいくようにしたい、とかいうためだけに一所懸命になるのはおかしい、と思うのです。
その「園是」を今回は紹介してみたいと思います。毎朝の朝礼で唱和しています。
園 是
私たちはのびのびとした心の教育を実践し、「幼児は大人よりも能力が高い」という考えのもとに子どもたちの潜在能力をひきだし、「褒め、励まし、認める」ことによって積極的な心構えを育てます。
同時に幼児期を、「人たるべき道」を教えしつける最もよい時期と考え、躾や道徳教育を大切にします。
そのために、まず私たち自身が自分に秘められた潜在能力を信じ、仕事に使命と誇りと喜びを感じ、常に感謝の心を忘れず、いつも笑顔で明るく積極的に行動します。
そして、宇宙の真理に悟り、世界の平和と共存共栄を実現する人間を育てます。
かすがようちえん
足が不自由なため、車椅子で中学校へ通う子をもつ小松まりこさんのお話です。(心ゆたかに生きる」南蔵院住職 林覚乗師著より)
三年間また当番を決めて友達が送り迎えをしてくれました。そして、小松さんの息子さんはからだが弱いから欠席も多かったけれども、なんとか卒業までこぎつけました。
ところが、風邪をひいて、晴れの卒業式に出られなくなってしまいました。
そのときに
「お母さん、小学校六年間、中学校を三年間支えてくれた友達に、僕、お礼が言いたい」
と言って、朝、ベランダに出て卒業式に行く友達を見送りました。
みんなが手を振って「おまえの分までがんばってくるからな」と言って、卒業式に行きました。
お父さんが早く帰ってきて、家で親子三人で卒業祝いをする約束でした。
昼ご飯どきにチャイムが鳴ったから、お母さんはお父さんが早く帰ってきたと思って飛んでいかれた。そしたら、そこに立っておられたのは卒業証書を持った校長先生と各学年の先生方と友達でした。
そして、校長先生が
「今から、お宅のお子さんの部屋で卒業式をしたいんですが、よろしいでしょうか」
とおっしゃいました。
車椅子の息子さんとお母さんを前にして校長先生が卒業証書を読まれ、各学年の先生たちが「よくがんばったね」と握手をしてくれました。
友達が拍手で祝福してくれたときには、息子さんはうつむいて涙を流していました。
「息子は三年間中学校で何を学んだか分かりませんが、優しさが人をすばらしい人間に変えていくということを学んでくれたら、それだけで十分です。学校で習った勉強よりも、もっとすばらしいものをうちの子どもは学んだ気がします」。
母親の小松さんの言葉です。
去年の11月15日。その日は日曜日で、しかもみなさまご存知のように「七五三」のピークの日。
その朝、一本の電話がありました。有名企業の 女性からでした。
まだ若そうなその女性は、あまり上手ではない敬語で、
「組合のボランティア研修のため、境内の掃除をさせてください」とおっしゃるのです。
ご祈祷がたくさんお越しになるのはわかっていましたが、「研修のため、というのなら」と、
「いいですよ」と答えました。
すると、
「集めた落ち葉で焚き火をしてもいいですか?」
さすがに、建物に燃え移ったりすると困るので、それはお断りしました。
「そうですか。それではあとでうかがいます」
電話を切ったあと、すぐに箒を数本用意して待っていました。
ところがお昼前になっても来られない。遅いなと思いながら待っていると、今度はその会社の別の男性からの電話です。
「焚き火をさせていただけないそうなので、それではボランティアの研修になりません。私たちは回りの方に声をかけ、手伝ってもらって、その方々と一緒に、焼き芋をして食べるという活動を考えています。ですから今回は遠慮させていただきます」との断りの電話でした。
この話、どうもおかしいと思われませんか?一体この人たちは、こちらの好意や気持ちをどう思っているのか、それにもまして「ボランティア」の意味をわかっているのか。自分たちの思いどおりにすすめるボランティアってあるのでしょうか?
れっきとした一流企業で、しかも研修のためと聞いて、その会社は大丈夫なのかとても心配になりました。
谷先生はおっしゃいます。
「親は、子どもに『できるだけよい環境で育ってほしい』という願いと、『どんな悪い環境でも負けない子に育ってほしい』という二つの矛盾する願いを持っています」
世の中は何ごとも練習。後者の、「悪い環境に負けない子」に育つためには、「悪い環境」の中で練習を重ねて習熟する必要があるのです。
「よい環境ばかりで育ち、ひょっこり悪い環境に突き出すと、それに負けてしまいます」
要するに、非行に走ってしまうのです。
「教育とは、矛盾し、両立し得ない二つの願いを持った楕円だ」、これが谷先生の教育観です。
それでは、よい環境の中で悪い環境に勝てる子どもを育てるにはどうすればよいか。
「江戸時代の学者、貝原益軒のことばに『子どもには三分の飢えと寒さを与えよ』というものがあります」
こうして親がわざと我慢する練習の機会を作り、「悪い環境」に負けない、「我慢する心がまえ」を身に付けさせることが大切だと断言されます。
子どもの数が減り、大切に育てるがゆえに過保護・過干渉になる。それは決して子どものためになりません。同時に、「自由にやりたいことをやらせる」というのも恐ろしいことだと思います。
やはり、幼児期のしつけや道徳、基本的生活習慣が大切ですね。こういうことを、行き当たりばったりではなく、一貫して身に付けていけるようにしてあげてください。
谷先生はその学校で生徒たちと寝食を共にし、30年余り校長として務めていらっしゃった先生です。
「この学校に来る子どもにはあるパターンがある」谷先生はおっしゃいます。
「元から暴れん坊でどうしようもないという子はほとんどいない。10人の内、9人までが小さい頃はホントにいい子だったんですね」
子どもたちは家庭で大切に育てられ、何でもいうことを聞く「いい子」だった。両親は「子どもの意に沿うように、意に沿わないことはさせない」という子育てをしてきた。
これは子どもにとって、すごく快適な環境です。
子どもの世界が「家庭」という小さな範囲ではそれでよかった。それが成長するにつれ、学校・社会へ世界が広がるうちに、適応できなくなり、社会からはじきだされる。それに気付き、あわてて家に戻って来る、その時が、子どもの変わる時だそうです。
「どうして俺をこんな風に育てたんだ!」
それから突然家庭内暴力や非行に走り、果てはこの家庭学校にやってくることになる、そう先生がお話しされていました。
「『子どもの意に沿うように、意に沿わないことはさせない』という子育てはダメです」
実際に30年余りも家庭学校の校長をされているだけに、教育評論家たちの言葉よりもはるかに重く聞こえてきました。
いつもながら子どもたちの楽しそうな姿を見るのは本当に嬉しいものです。
ルーム4も鼓隊演奏、頑張って堂々と素晴らしかったですね。
この鼓隊を見て、「軍隊みたいでよくない」とか「きっと厳しく叱られながら練習させられたんだわ」という感想を持たれる方もあるようです。
でも、かすがようちえんでは子どもたちの「できたこと」を認め、褒める教育をしているものですから、みんな鼓隊が大好きになってきます。イヤイヤ練習する子などいません。
「きのうより上手になったね!」
「バチがそろってきたよ!」
と、いいところを見つけ、褒めるのです。
そうすると、かえって「先生、今日太鼓の練習ないの?」「太鼓の練習しよう!」と子どもたちの方からいってきてくれます。
幼稚園によってはできてないところを注意し、叱り付けることによって練習しているところも多いようです。そういう幼稚園の廊下を歩いていると、子どもたちが「助けて」というまなざしで窓からこちらを見ているそうです。ぞっとしますね。
それなのに、完成した「鼓隊」を見て、親は感動するのです、その練習の過程につぶされたものも知らずに。
「何を教えるか」より、それを「どのように教えるか」の方が大切ですよね。「鼓隊」は子どもたちの「やる気」を育て、「達成感」を味わえる成長の手段でなければ意味がありません。
「思いやりの心とは何ですか」
という問題が出たとしましょう。
何と答えればよいのでしょうか。少し考えてみてください。
「相手の身になって考えること」、
これが正解です。
さて、A君はそう答えてマルをもらいました。
ところが彼は、バスでお年寄りが前にたたれても席を譲るようなことはしたことがありません。
「そんなん、自由やんけ!」という考え方。
反対に、Bさんは、いつもお年寄りに席を譲り、友だちにも優しく接する、文字通り「思いやりの心を持った子」。でもテストでは正解がかけなくてバツでした。
私は、今の学校教育の問題の一つがここにあると思っています。いわゆる「点数主義」。実際にその子がどうかより、テストで正解できるか、よい点が取れるかですべてを評価してしまうのです。
この場合、Bさんに、
「いつも思いやりの心で人に接していますね。あなたは、その心が分かっている人です」
と、花マルをつけてあげられる、そんな「心」をもった教育はできないものかと常々思っています。
そして、そんな配慮や評価をする小学校を作りたいなぁと夢見ています。もちろん今のかすがようちえんの方針、「できないことを叱るのではなく、できることを認め、褒める」が教育理念。
子どもたちが本当に、「学校が楽しい!」と通ってくれる、そんな小学校がきっとできそうな気がします。
前回、子どもにやる気を起こさせたかったら、自分からやりたくなる内発的なモティベーションをおこさせることが大切だと書きました。
だれでも「子どもにやる気をおこしてほしい」と願っています。実は単純な原理でそれができるのです。
そのためにはまず、やる気の3要素と呼ばれる条件を揃えましょう。
ひとつ目は「好奇心」。人はあるものに好奇心をもったとき、「知りたい・試したい」という欲望が生まれます。
二つ目は「目標」。目標が明確にあるとき、つまり「なんとなく」ではなく、「あれが欲しい・ああなりたい」とはっきりとしたとき「達成したい」という欲望が生み出されます。
三つ目に、「報酬」。この報酬とは物やお金などではなく、「褒められること・賞賛」など。これが「手に入れたい・やりたい」という欲望を生みます。
この3要素はそれぞれ脳の視床下部という欲望を司る部分を刺激し、「TRH」というやる気をおこすホルモンを分泌させるのです。
ですから例えば「自転車に乗れるようにならせたい」と思えば、まず上手に乗っているお兄ちゃんや友だちの姿をじっくり見せ、自転車にさわらせたりして好奇心をもたせるようことばがける。同時にそれが目標となります。そして練習を始めたらどんどん褒めて励ましてあげる。これを繰返すのが一番の早道です。(鼓隊もこの方法で練習しています)
そしてそれが「ほかのこともやって見よう」という積極性をも育てることになるのです。
1年程前、ラグビーの日本代表チーム監督、平尾さんの講演を聴く機会がありました。
「怒られるからやる」という外発的なモティベーションではダメで、「勝ちたい、こうしたい」という内発的モティベーションを育てなければならない、という内容でした。
モティベーションとは「意欲・やる気の動機づけ」のことです。
今、かすがようちえんで理念にしている「積極的な心構えの教育」と同じ考えで、職員とともに納得して帰ってきました。
人をやる気にさせるには次の3つの方法があります。大人も子どもも同じです。
①恐怖によるモティベーション
②報酬によるモティベーション
③心構えによる内発的なモティベーション
①は罰や叱ることなどによるもの。「・・・しなかったらご飯たべさせへんしな!」などがこれです。
②は「ごほうび」でつる方法。
この2つは外発的なモティベーションです。そしてそれぞれ明確な弱点があるのです。
①はやる気を出すより、そのうち罰にたえるか反抗することを選ぶようになります。②の「ごほうび」はどんどんエスカレートする、もらって当たり前になるなどの結果を生みます。
ところが③は自分から進んで「やりたい!」と思うもので、弱点がありません。
子どもにやる気をおこさせたかったら①と②をうまく使いながら③のモティベーション、つまりやりたくなるように動機づけることがポイントになるのです。
その方法は次号でお伝えします。
いつだったか中・高校生のカウンセリングをなさっている方とお話しをする機会がありました。
「やっぱり、不良とよばれる少年たちは自己中心的ですね。そしてとにかく悪いことはみーんな人のせい。原因を自分に求める姿勢がありません」
「そうですか」
「ところで米川さん、そういう少年たちが『父親を、母親を殺してやりたい』と思った瞬間はどんな時だと思われます?」
「さぁ、どんな時ですか?」
「それはね、『誰のおかげでここまでなれ大きくなれたと思ってんにゃ!』『誰のおかげでこの世に生まれてきたの!』の一言をいわれたときなんですよ」
「誰のおかげで」がこんなに決め手になることばとは思ってもみませんでした。
「誰が生んでくれて頼んだんや!勝手に生んどいて偉そうにいうな!」
少年はきっとこう答えるに違いありません。これでは親子の絆などとても望めませんよね。
「誰のおかげで」の一言は「してやってる、させてやってる」という気持ちのあらわれでしょう。
考えてみると、私たちの日常会話の中にたくさんの「してやってる、させてやってる」が登場します。友人同士の会話にも家族の会話にも。
お互いがお互いを尊重しあい、理解し合うためにはこの「してやってる、させてやってる」をやめ、「させてもらってる、してもらってる」にかえていく。案外それが一番簡単で、一番大切なポイントになってくるものなのです。
絶対に使ってはいけないことば、覚えておいてください。
ルールを守ってこその「自由」だ、と前回書きました。
例えば野球にしても、ヒットを打って、「おれは自由だから」と、3塁に走っていたらこれはもうおもしろくも何ともありませんよね。ゲームとして成り立たない。(野球のルールを知らない方、ゴメンなさい)
ルールを守ってやるからおもしろくなるんです。
考えてみれば世の中、ほとんどすべてのことにルールがあります。それを守ってこそうまく行くものなのです。
かすがようちえんではしつけや基本的な社会のルールを身に付けるのは幼児期が最適で、最も大切な時期だと考えています。この時期を過ぎると理屈ぬきで習慣づけるには大変な労力がいります。
「人にあったら挨拶をする」「親切にしてもらったらありがとうを言う」「靴を脱いだら揃えて置く」「使ったものは後片付けをする」などをしっかりと、繰り返しの中で身に付けてもらいたいと考えています。
「子どもの自主性を育てるために、子どものしたいようにさせています」という幼稚園もあります。
極端な場合、お弁当も「食べたい時に食べればいい、それが子どもの自主性を育てるのだ」とまでいうところもあります。
しかしそれでは社会のルールというのがまるでありません。行き先も示さずに子どもに「どこでも好きなところへいっていいんだよ」と放り出すようなものです。
幼稚園は社会生活の第1歩。
「自由」に、しかしルールを守れるように育ってくれることが大切ですね。
平成10年3月31日、「幼児期からの心の教育の在り方」についての中央教育審議会の中間報告が発表されました。
最近耳にタコができるほどよく聞く「心の教育」ということばですが、今回は家庭教育の見直しを求める異例のものとなりました。
さて、今回は「自由」ということの意味について考えてみたいと思います。
自由とは「自分のしたいようにすること」。これはみなさんご存じの通りです。ところがこの自由を守るためには「自由を制限しなければならない」という矛盾が起こってくるのです。
例えばあなたが車を運転しているとしましょう。
あなたは自由です。だからとにかく早く目的地に行きたい。目の前に赤信号。止まらなくてもいいのです、なぜならあなたは自由だから。交差点に突っ込んだ。横からこれまた「自由」な他人が突っ込んできて…。
「自由」を守るためには自由を制限しなければなりません。この場合、「信号を守る」というルールによって制限されるのです。このルールが法律や社会規範、道徳、しつけで、これを守ることによって社会生活がうまく行くわけです。
「何でも自分のしたいようにすること」は単なる「自分勝手」。「自由」の本当の意味を幼児期からしっかり教えていきたいものです。
平成9年3月
以前に、思い込みが無意識に作用してしまう心理効果として「ピグマリオン効果」を紹介しました。
今回は、それに似たもので「プラシーボ効果」というものを紹介しましょう。
プラシーボとは医学用語で「偽薬」のこと。暗示が人体にどれだけ大きな影響を与えるかというよい例の一つです。ある実験を紹介します。
車に酔いやすい人を16名集め、8名ずつAグループ、Bグループ、2つのグループに分けます。
そして、それぞれ30分間バスに乗ってもらいます。そのバスはS字カーブをぐるぐる回ります。
ただし、Bグループの8名には
「新しく開発された、すごくよく効く酔い止めの薬です」
といって単なる乳酸をのんでもらいます。Aグループは何ものまずに乗ってもらいます。
さて、結果はどうなるでしょう?
走り始めて15分間でAグループは8人中6人が
「気分が悪くなった」
と、バスを降りてしまい、30分後にはだれも乗っていられませんでした。
ところが薬をのんだBグループは30分たってもだれも酔う人はいません。その薬が酔い止めなどでなく、ただの乳酸であったのにも関わらずです。
このように他人(この場合は医師)からの暗示は、人間の体に大きな影響を与えることがあります。
「うちの子は・・・だから」と決め付ける前に、普段どんな暗示を与えているか振り返ってみることも大切ですね。
平成9年2月
日本・中国・アメリカ・スウェーデンの小学5年生を対象にした、ある調査の結果があります。
調査内容は「自分をどれだけ評価しているか」というもの。それぞれ最も高かった国と日本のポイントを紹介します。
①「自分は成績がいいほうだ」 アメリカ34 日本6.5
②「自分は正直だ」 中国50 日本9.5
③「自分は親切だ」 中国51 日本11
この結果を見ると、日本人の子は極端に「自己評価」が低いことが分かります。
いいかえると「自己受容感」つまり、「自分は精一杯やっているよ」という気持ちを持たずに日々を送っている子が多いということ。いつも「もっと頑張らなければいけない」というプレッシャーの中で生きているともいえます。
日本のある小学校高学年を対象にした別の調査の例を見てみましょう。
「成績が悪い原因は、何だと思うか」のアンケート、選択肢は次の4つです。
①頭が悪い
②努力が足りない
③先生が悪い
④内容が早く進み過ぎる
さて結果はどうだったと思われますか?
「②努力が足りない」が何と86%で、あとはそれぞれ3~4%程度。外国ではきっと③が圧倒的に多いと思われます。もちろん、先生のせいにばかりするのもどうかと思いますが、やはり日本の子は「自己受容感」が低いのが分かります。
いじめにあう子は極端に自己評価や自己受容感が低いといわれています。日頃の小さな達成を認め、励まし、褒める。それも他人と比べるのではなく繰り返すと「自己評価」が育っていきます。
「欲深い人間になるな」
私たちは幼い頃からよくそう諭されてきました。
これは儒教や仏教の考え方からきています。それが、あまり大きな望みをもつことを避けてしまう消極的な心構えを多くの人々に植え付ける結果となっています。マインドコントロールされ、洗脳されているのです。
人生に夢を持ち、幾多の困難や障害を乗り越えそれを成し遂げて行く、だれでもがそうありたいと望む理想の姿です。そして実はその夢実現の原動力が欲望に他ならないのです。
「月へロケットを飛ばしたい」
そう強く願い、その実現を夢み、激しい欲望をもった人たちがついにそれを実現しました。
「小児麻痺をこの世からなくしたい」
その欲望をもやし続けた人たちがポリオワクチンを開発しました。そして多くの子どもたちが小児麻痺の恐怖から救われました。
もってはいけないのは「私利私欲」といわれるもの。正しい欲望は是非もつべきなのです。それこそが、子どもたちがこれからの人生で夢を実現していく原動力になるのです。
今月の心構えは「想像するって楽しいな」。幼児期の無邪気な想像力を大人になってもずっと持ち続けていける人、そういう人が天才的といわれる偉業を成し遂げて行くのだと思います。
「そんなこと、できっこない」と普通の人が頭から決め付けてしまうことを、情熱と欲望をもって実現していく、素晴らしいことです。
「もっと欲を持ちなさい」
みなさんのお子様には是非そういってあげてほしいと願っています。
「子どもをほめよう」、このような考えでいますと本当に子どもたちの行動に、叱るような所が少ないことに気づかされます。「いいところ」ばかりが目についてしまうものなのです。
もちろんこの時期は、しつけや善悪などについてしっかり教えていかなければなりませんので、当然叱ることも必要になってきます。
ただ、叱るようなことばかりに目が行き過ぎがちなので、「ほめるほうにも心を向けておいてください」とお願いしておきたいのです。
さて、今回は試しに叱られているときの子どもの心境になってみましょう。
みなさんの身長は150cm~160cmぐらいでしょうか。それに比べてお子さんは100cm~120cmぐらい。約1.5倍としましょう。
ある日、あなたの身長の1.5倍、身長2.5mの巨人がやってきました。2.5mといえば一階の天井を突き破り、2階に頭が出るぐらいの高さ。もちろん力も強い。
その巨人があなたをどなりつけている光景を想像して見てください。その巨人はいつものあなたと同じ、このせりふをいうのです。
「なにしてんにゃ、あんたは!」
いかがでしょう。何と恐ろしい話しではありませんか。もういいなりになるしかありません。あなたが何をしてもこの巨人が繰り返しいうのです。
「ええかげんにしーや!」
自分から積極的に何かをしようとする気持ちがおきるでしょうか?
今度カーッときたら、この巨人の話しを思い出してください。
さて、この「テスト」。子どもの理解度や能力を知るために行われているようですが、私はこのやり方には反対です。
ましてやこのテストをもとに、教師と保護者との懇談で、
「お母さん、お宅のお子さんは読解力が今一つで、それに授業態度が悪いですね」
とやられるとなるとこれはもう大反対です。
私は、「テスト」とは、子どものためにやるのではなく、教師のためにやるものだと考えています。教師がどれだけうまく子どもに教えられているかを知るためのもので、つまりは教師の能力をはかるためのテストだと思うのです。
例えば60点だったら
「ああ、僕はこの子に60点分しか伝えられていないな」
と反省し、100 点の子には
「うまく理解してもらっているぞ」
と喜ぶ。そういうものだと考えるのです。
お母さんとの話しでも、
「今回は僕の力不足で60点でしたが、今後もっとよく理解できるように授業をしていきますからご協力お願いしますね」
という態度でなければならない。
教師として威厳をもつことは大切です。今の教師にはそれが足りなさすぎることもあります。が、「教えてやっている」という態度と威厳とは違います。
こういうところも教育改革していきたいところです。
平成10年10月
今月の心構えは「私を助けてくれる人『人からの助力に感謝すること』」。
「ありがとう」が素直にいえる子に育ってほしいですね。
子どもたちに「人に親切にしてもらったり助けてもらったりしたら『ありがとう』をいうんですよ」と、いくらいっても効果はなかなかあがりません。それより大人が身をもって、率先して子どもに「ありがとう」をいう、これが大切なポイントです。
ようちえんでは、まず教諭自身が子どもたちに対して「ありがとう」を頻繁にことばがけます。
ひとつ例を挙げて見ます。
水道がジャージャー出っ放し。だれかが出したままでいってしまったようです。
「ちょっと、水道止めてくれる?」
偶然通りかかった子にお願いすることがよくあります。
「はいっ!」
止めてくれたその子に
「ありがとう、先生助かったわ」。
当たり前のようですが、大人は案外このとき「ありがとう」をいわずにすごしがちなのです。
できて当たり前、してくれて当たり前と思い込んでいることにはなおさらです。
何か取ってくれたお父さん、お茶をいれてくれたお母さんにひとこと「ありがとう」をいう、この小さな心配りが習慣になっている家庭、素敵ですね。こうなると子どもたちの心の中に「人からの助力に感謝をする」心構えが育ち、しっかりと身についていくのです。
そんな中でも1時間目の授業が始まりました。
ギシギシと音をたてる木造2階建ての校舎。
「静かに押し合わないで廊下に出よ!出たら腰を下して頭を低くせよ!」
と先生の叫ぶ声。北校舎2階の3年生がやっとのことで講堂に避難した直後、未曾有の大惨事が淳和小学校を襲いました。
防火壁を境にして1、2階教室が瞬時にして倒壊。その下には1年生4クラス、200名あまりの児童と4名の先生が埋まってしまったのです。
最大風速75メートル、荒れ狂う風雨の中の救出活動。時を選ばず瓦が舞い落ちる。無事助け出される児童。すでに息がない我が子を抱いて泣き崩れる母親。
そんな中で、に組松浦学級の救出がなかなかはかどりません。
「この下に先生がいやはるぞ!」
棟木の下に、うつぶせに紺の袴をつけた束髪の女性、その両脇に抱えられた2人のこどもが目をパチクリ。先生にはすでに息がありませんでした。
松浦寿恵子先生の死因は倒れた棟木で後頭部のヘアピンが延髄につきささっての即死。両脇のこどもの無傷は先生が棟木を受け止めた結果でした。
この話しは師弟愛の象徴として現在までいろいろなところで語り継がれており、今でも西院小学校の入口に記念碑が建っています。
子どものやる気すなわち意欲を大切にし、また育てるのが大切なことはいうまでもありません。
ところでこのやる気。ひとことでいってしまいますが実はやる気にはふたつあるのです。
ひとつめは自分の好きなこと、やりたいことを進んでやるやる気。ふたつめは「嫌だな、難しそうだな」と思うことにも「やってみよう!」と挑戦し取り組んでいくやる気です。
よくこのふたつを混同して子育てや子どもの教育を考えるのでややこしくなります。
幼稚園によっては「のびのび保育」の名のもとに「子どものしたいようにさせるのがこの時期は大切。それでこそ子どもの主体性が育まれる」という教育をしているところがあります。これでは前者の「やる気」は大切にしていますが、後者の「やる気」は育ちません。
大脳生理学によると、4歳頃に脳の「側坐核」というやる気を司る部分が発達するそうです。この時期に側坐核に刺激を十分与えずにおくと、つまり後者のやる気を鍛えないと、困難や障害にあたってもそれを乗り越えて行く勇気や自信がない子に育ってしまいます。自分のやりたいことには熱心に取り組むけれども嫌なことには見向きもしないようになってしまうのです。
ですからかすがようちえんではこの、後者のやる気も育てるために、子どもたちが難しいことに挑戦する機会も用意し、挑戦するその姿を「褒め、励まし、認める」教育を大切にしているのです。
「やる気」にはふたつあることを知っておいてください。そしてどちらのやる気をも、上手にバランスよく育ててあげることが大切です。
田中喜美子さんの書かれた「いじめられっ子も親のせい!?」(主婦の友社)という本を読んでいて、共感するところがいくつもありました。
その一つを引用してみます。
『もしも、彼らが、家族の一員として意味を持つ役割を担っており、「僕がいなければ、お母さんはどんなに困るだろう」と考えられる生活をしていたならば、彼らははるかに強く、生に引き留められていたのではないでしょうか。』
いじめられ、自殺した子どもたちについての一文です。彼らは愛されてはいました。しかし「してもらう」受け身の愛情ばかりで「必要とされている」実感が乏しかったのです。
幼稚園でも7月の心構え「楽しいわが家」、9月「大きなことができるんだ」で家族関係の大切さと手伝いを通じて自信を育てることを強調しています。
幼児期の子どもにとって「自分は家族の大切な一員なんだ」ということを認識する一番の機会は「手伝い」です。でも、させるだけではダメ。その行為を認めることばが必要です。ちっちゃなことでも手伝ってくれたときには必ず「ありがとう」をいってあげる。お父さんにもです。
同時に子どもにも、家族に何かしてもらったら「ありがとう」という習慣を今、身につけてあげてください。
今までそうしているという方はさらに続けてください。でも、「そんなこといまさら恥ずかしくて…」と思われる方は、そう言わずにどうぞ今日から始めてください。
「ボクはワタシは家族の大切な一員」、この心構えは一生を左右します。
幼児期は物ごとの善悪や、やっていいこといけないことの基準となる「価値観」を育む大切な時期です。
この価値観を教える最も優秀な先生はお母さん,お父さんです。そして最も大事なポイントはいつでもダメなことはダメ、いいことはいい、という「一貫性」です。
もちろん、家ではやってもいいけれどデパートではやっていけないことがあったり「価値観」にはTPOがあり、むずかしい面があります。しかしできるだけ一貫して原則的な善悪を教えていくことがとても大切です。
その日のお母さんの気分によって、叱られたり何もとがめられなかったりということがあったらどうでしょう?こうして育てられた子どもは、まずお母さんの顔色を見て「やる、やらない」を決めるようになります。
「今日は機嫌がよさそうだぞ」と思えばやり、
「機嫌が悪そうだ」と感じればやらない、お母さんの顔色が善悪の判断の基準になってしまうのです。
でも、親が一貫性をもって育てた子どもは「これはいいこと、これは悪いこと」を自分で決められるようになります。価値観がしっかり育まれているのです。
一貫して叱り、一貫してほめる。お父さんとも話し合って両親の基準を一緒にしていただければいうことありません。
4月の心構えは“魔法のことば”。
礼儀作法はしつけにも通じるものですが、幼児期に繰り返し、身にしみつくようにしてあげることがとても大切です。6歳を過ぎると一から習慣づけるためには相当な労力が必要になってしまいます。ですからこの時期に、理屈ぬきで自動的に(これをサイコサイバネティクスといいます)出てくるように習慣づけてあげてください。
挨拶やお礼のことばなどは社会生活を送る上での大切な潤滑油。笑顔で「おはようございます」「ありがとう」といわれると、いわれた方の気持ちが明るくなるものです。この、ことばの持つ力、これを園では“魔法のことば”と呼んでいるのです。
どの様にして教えていけばいいのでしょう。
子どもたちの脳は3歳まではプリント配線、それ以後6歳まではそれに加えて自分で考え判断することによってプログラムされていきます。つまりこの時期は身近な人の姿をコピーするようにプリントしていく時期。ですからお母さんの普段の姿が大切なお手本になるのです。
まず、お母さんが「おはようございます」「ありがとう」、魔法のことばを上手に、頻繁に使ってみせてあげてください。それがどんなものより素敵なお子さんへのプレゼントになります。
さあ家族から、そして幼稚園に登園するときからはじめましょう。
●園では便宜上、最も身近な方を「お母さん」と標記しています。ご了承ください。
叱ってばかりでほめることがなければ、「無視されるぐらいなら叱られることでもして注意を向けてもらうほうがましだ」と叱られることを繰り返すようになります。
ですからほめる叱るをバランスよく繰り返すことが大切です。ほめられることをしたときは心からほめ、叱るべきことをしたときは一息おいてまずほめるべきところがあればほめ、そのあとダメなところをいってあげてください。
このフィードバックを繰り返すと子どもはだんだん望ましい行動を取るようになります。
でも、他人の迷惑になることや危険なことなどに対しては即座に厳しく叱ってください。ただし次にそれができたときには十分ほめてあげることを絶対に忘れずに。
次のコツはほめるときは具体的にほめてあげること。
「今日はいい子だったわね」といってあげると子どもは確かにうれしく感じます。
でもこういう時には
「今日デパートでお母さんが友だちと会ったでしょう?あの時そばでおとなしくしてくれてお母さんうれしかったわ」
と具体的にいってあげると、子どもはお母さんが喜んでいるのはなぜか、次に同じようなことがあったときどうしたらほめてもらえるかがわかります。
育児書の中には「子どもをほめすぎるのはよくない」と書かれたものもありますが、それでは叱ってばかりいる親に「ほら、みてごらん」と変な自信を持たせてしまうことになりかねません。とかく人間は都合のいい方に考えがちですから。
いつもいうように「ほめる」のも心構え、つまりクセです。子どもをほめようと思えば親がまず、ほめるクセを身に付けなければなりません。
そしてそれは案外簡単に身に付けられます。その方法を書きますので是非試して見てください。
まず、この1週間は、子どものよいところを見付けようと決意してください。
どこかほめるところはないか「観察する」つもりで子どもを見ていてください。いつもは「なにしてんの!」と怒鳴ってしまいそうな時も、ひと呼吸おいて見てください。
そして、カレンダーや手帳に今日見付けた子どものよいところ、ほめたところをメモして見てください。
1週間続けるとだんだん子どもを今までと違った目でみれるようになります。なぜならクセになってきているからです。
子どもが変わったのではなくて、お母さんが変わったのです。
自分が変われば子どもが変わる。そして世の中も変わって行きます。
「本当に変わった」そんな声を是非聞かせてください。
本当にそうでしょうか?次のような場合を考えてみましょう。
山田君は東大の20歳の優秀な学生。彼を連れてきてこういいます。
「山田君、これから1年半、中部イタリアの小さな村で生活してもらう。そこで君にやってもらうことは現地のイタリア語を話せるようになることだ。」
ちょうどその時、みなさんのお子さんが通りかかった。
「そうだこの子も連れていってくれ」
山田君は現地で完全なイタリア語の指導を受けます。お子さんには何も指導はしません。現地の子どもと遊んだり、普通の生活をしています。
さて、約束の1年半がたちました。日本に帰ってきた山田君とみなさんのお子さん。果たしてどうなっているでしょうか?
山田君は優秀な学生ですから相当イタリア語が話せるようになっています。ただし、ひどい日本語なまり。
一方何にも指導を受けなかったみなさんのお子さんもやはり相当イタリア語が話せるようになっています。しかも滞在していた地方のなまりでイタリア人のアクセントで話しているはずです。
このことはどう説明すればよいのでしょうか?
答えは簡単です。子どもは語学の天才なのです。
「物ごとを吸収する能力は大人よりはるかに優れている」そんな目でお子さんを見直してください。
内容を簡単にいうと「IQ偏重をやめ、EQを大事にしよう」ということ。
EQとは「こころの知能指数」。点数評価のIQと違い、自信・協調性など社会生活を送るうえで本当に大切な基本的能力のことをいいます。まさにかすがようちえんでいう「心構え」そのもの。
少し長くなりますが一部を引用してみます。
EQの高い子の積み木での実験例を紹介して、
「こういう子供は周囲の人々から褒められ励まされて育っているので、人生でささやかなチャレンジに遭遇しても、きっと成功できるという自信を持っている。
対照的に、冷酷で混乱した家庭、あるいは子供に無関心な家庭で育った子供は、同じ課題を与えられても、はじめから失敗するに違いないと思い込んでいる様子を見せる。
実際に積み木がうまくならべられないわけではない。実験者の指示は理解しているし、それに答えようとする協調性もある。しかし、たとえ課題がきちんとできたときでも、こういう子供は『ぼくなんかダメだ。ほら、やっぱり失敗した』と言わんばかりの卑屈な表情を見せる、とブレイズルトンはいう。
このタイプの子供は長ずるにしたがって敗北的な人生観を抱き、教師から励まされることも注目されることも期待せず、学校生活に楽しみを見いださず、やがて落伍していくことになる。」(P293)
このEQの基礎づくりはやはり小学校入学までが大事になってきます。日頃の「ほめる、励ます、認める」の繰り返しを心がけて下さい。
一般に冷たいといわれるコンクリート打ち放しですが、木材を多く使うことでかえってきれいなバランスのとれた空間ができ上がりました。
色の氾濫をおさえ、ポイントカラーに赤を一色使っています。もちろんコンクリートの角は極力出ないようにして、プレイルーム(1F)の柱の角にはコーナープロテクトが施してあります。スイッチ・取っ手類も子どもが触れるところとそうでないところとで高さを変えて、またガラスも子どもがふれる部分はすべてアクリルガラスで割れません。R1・2の蛍光管は万一落ちても粉々にならないものを使っています。
明るさ(採光)にも気を配り、晴れた日なら照明がいらないくらいです。それでいて陰の部分もでき、子どもに落ち着ける空間を提供しています。
次にトイレ。暗く不潔感がでやすい部分ですが、①各部屋に独立して作る、②採光・見通しを十分とる、③床を教室と同じにするなどで明るく清潔感のあるものにしました。子どもたちにもきれいに使う習慣ができています。大便器もそれぞれ年齢に合わせた大きさで設置しました。などなど。
「幼稚園とはこんなものだ」という考えにとらわれず、本当に子どもにとっていいものは何かに十分配慮をしたつもりです。これからすばらしい子どもたちの生活が展開されることでしょう。保護者のみなさまのご感想はいかがでしょうか?
4年前、近所でそう噂されていたこのかすがようちえん。それが今日の日を迎えることができるとは夢のようでもあります。
「幼稚園の園舎を建てかえる。」平成4年(1992)11月12日の日付で私の目標設定マスターシートに記されています。来年度から園長に就任することが決まった数日後のことです。
そう目標設定してから次には、会う人会う人に「幼稚園を建てかえるんだ。」と話しをしました。
でも身近な人はだれも信じてくれません。実は私自身も「そんなこと、できるわけない。」と思っていました。というのも当時は園児が減少し、赤字が数年続く、そのほかにもいろんな悪条件がもれなくひっついてくる、そんな経営状態での園長就任だったからです。
でもおもしろいもので「建てかえるんだ。」そう言い続けているとだんだん回りの人が信じ始めます。そして不思議なことに、本当は一番信じていなかった自分が「できる」と信じ出す、目標設定にはそんな魔法の力があります。
「まずは教育内容の差別化と充実、それが実現したら着工する。見てくれだけではダメだ。」
私の強引な考えに職員は一所懸命こたえてくれました。
目標設定してから3年と10ケ月後の先日9月20日、新園舎が竣工いたしました。
半年間、仮設のプレハブでご迷惑をかけました。
ガマンしてくださった園児・保護者のみなさん、本当にありがとうございました。
何をやらせても「どうやるの?」「やってやって」。「こうしてごらん」といっても「できなーい」。
「どうしてうちの子はこんなに自信がないんだろう。もっと自分で何でもできる子になってほしいな。」よくそんな声を耳にします。
「こうしなさい、ああしなさいといろいろと教えてあげているのに・・・」
実はこの「こうしなさい、ああしなさい」と指示ばかりしていることや、子どもがすることに注意ばかりしていること自体が、反対に子どもの自発性が育つのを阻害したり、また自信を失わせてしまっていることが多いのです。
自信をつける方法はまず「判断力をつけること」です。判断力をつけるためには「自分で判断する機会をたくさんつくること」が大切です。
そこでお母さん、お父さんの魔法のことばの登場です。
「まかせるよ。思った通りやってごらん」
このことばを子どもに何か手伝ってもらうときや何かに挑戦しようとしているとき、また「やって」「できない」と子どもがいってきたときに繰り返し使ってあげてください。ただし、結果については認め、ほめてあげることを決して忘れないでください。もし、結果が思わしくなくてもチャレンジしたことをまずほめ、それから注意する点をいってあげる。これを繰り返してください。
園でこのことばを使い始めたとき、そのすばらしい効果には驚かされました。
ご家庭でもこの「魔法のことば」を早速使ってあげてください。
いかに幼児期の教育が大切かがわかります。
今回はその発達の特徴についてお話しします。
0歳~3歳
《脳の働き》
右脳の天才的能力が最高に活躍する時期。瞬時に与えられた情報をそっくりそのままインプットすることができる。(プリント配線)
《発達の特徴》 模倣の時期
●善悪の区別がつかない。
●やさしい、難しいの区別がない
●インプットされたことが生涯にわたり、生き方の基本パターンになる。
3歳~6歳
《脳の働き》
右脳の活躍に加えて、創造・個性・やる気に関わる前頭葉を鍛えなければならない時期。
《発達の特徴》 無負担・無努力の時期
●繰り返しが好き(覚えたくてしかたがない)
●丸暗記が得意(覚えずにはいられない)
(ルーティーンはこのような発達の特徴をふまえた活動です。)
お子さんの名前をひろし君だとしますと、要するにまず「ひろしはできる。」「ひろしには素晴らしい能力がある。」と信じることが大切です。
よくお母さん方から「そうしようと思ってもできないんです。分かっていてもついガミガミ言ってしまいます。」という声を聞きます。分かっていてもつい言ってしまうのはなぜでしょうか?
それは私たちのくせ、つまり心構えがそうさせてしまうのです。ですからまず、この心構えをかえる必要があるのです。子供の心構えをかえる前に、私たち大人の心構えをかえなければなりません。
ではどうすればいいのでしょうか?いろんな方法がありますがその一つを紹介しましょう。
自分がしたいことを紙に書く、そしてそれを繰り返し声に出して読む。例えば「ひろしには素晴らしい能力がある。」「ひろしは○○ができる。」などと紙に書き、それを普段目につくところに貼っておく。そして見るたびに声に出して繰り返し読む。以前に園で配った「積極的な心構えを作ることば」の表も大変効果があります。
「そんなことでかわるの」と疑われる前にとにかくやってみましょう。繰り返されるそのことばがやがて潜在意識の中に入り込み、心構えをかえていき、子どもに対する積極的な期待が知らないうちに生まれてきます。そしてピグマリオン効果によって子どもの心構えにいい影響を与え、子どもの行動までかわってくるのです。
ところが「Aグループの方が学力が伸びますよ」といわれた先生側の生徒に対する態度、まなざしがそれ以後無意識の内に変わったのです。
例えばAグループのひろし君に「この問題分かる?」と尋ねて「分からない。」と答えると、先生は「ちょっと待てよ。」となるわけです。「ひろし君はたしかAグループだ。これはぼくの聞き方が悪かったのかもしれない。」ともう一度説明しなおしたりする。
ところがBグループのまさし君が「分からない。」というと「あ、そう。じゃ次。」となってしまう。こういうことが日常―先生の心の中で無意識に―たくさん起こってくる、その積み重ねの結果が学力の伸びの差になってきたのです。子どもの心の中にも「期待されているんだ、できるんだ。」という思いが育ってきてさらに勉強をするようになるのです。
この心理効果をピグマリオン効果とよびます。
園では子どもに対して「この子にはできない。」とか、「3歳児にはムリだ。」というマイナスの固定観念や先入観をもたないようにしています。
子どもが「できない、やってやって。」といったときには「できるよ、やってみよう。」という言葉がけを何度も何度も繰り返します。すると子どもたちはどんどん積極的になっていきます。
どうぞご家庭でもこのピグマリオン効果を上手に使い、積極的な期待をもってお子さんに接してあげてください。
このピグマリオン効果についての代表的なローゼンタールたちの実験を紹介しましょう。
アメリカのある小学校で全員に簡単なテストをしました。そしてその採点結果と、さらに生徒全員をAとBの二つのグループに分けて学校に報告しました。
AグループはBグループより少数なのですが、「Aグループの生徒たちは、将来必ず学力がのびます。」と彼らはいうのです。しかしこのAグループには成績のいい子もいるのですが普通の子もいる、中には教師が見放すほど成績の悪い子も含まれていたのです。
8か月後、ローゼンタールたちはまた学校にやってきてテストをしました。その結果、たしかにAグループの生徒たちの成績の伸びはBグループを上回っていて、知能指数でいうと0.9か年、論理的判断力は1.0か年以上伸びていたのです。
小学校の先生たちはびっくりして尋ねました。
「簡単なテストだけでどうして学力が伸びるかどうかが分かったのですか?」
その種明かしは次号でお話しします。
生まれたばかりのネコにすぐ目かくしをして育てます。さて、それから45日が過ぎ、その目かくしをはずします。このネコは物を見ることはできません。その後どんなにしても見えるようにはならないのです。
ところが成長したネコに同じようにしても目が見えないようにはならないのです。これはいったいどうしてでしょう?
実は、ネコの物を見る能力をつかさどる脳神経は、生まれてから45日間で配線を終えてしまうようにプログラムされています。ですから、この期間使われないと(なにも物を見ないと)配線しないようになっているのです。
生後45日しかチャンスはないというのは本当に厳しい自然の摂理だと思います。そしてネコの場合、この<45日間>を視覚の<臨界期>と呼んでいるのです。(人間の場合は2年半ぐらい)
物を見る能力だけでなく、ことばや聴く能力、運動能力などにもこの臨界期があります。
さらに、おもいやりの心とか優しさ、愛情、積極性、自主性などという人格(心・人柄・性格)にも臨界期があると私は考えています。だからこそ幼児期に心の豊かな環境で育つことが大切なのです。今、問題になっている「いじめ」の原因も幼児期の経験の中にあるのではないのでしょうか?
今まで、「物心ついてから」とか「小学校に入ってからでいい」とか「早すぎる」といわれてきたことを、臨界期という脳の発達の特徴から見直してみなければなりません。
子どもは自分が家族にとって大切な存在でありたい、家族の一員として認められたいと心から願っています。ですからその反対の「認められない」つまり「無視される」ことが一番こわいのです。
無視されるとは「いてもいなくても、どっちでもいい」ということです。そんなふうに扱われたら大変です。ですからほめられる子どもは、またほめられることを繰り返すことによって自分の存在を認めてもらおうとします。
でも、ほめられない子どもは、叱られるようなことをわざとすることによって自分の存在をアピールする方法を選んでしまうのです。悪ふざけをしたり、わざと大きな音を立てたり、いうことを聞かなかったりして注意をひこうとするのです。そうしないと無視されてしまうかも知れないからです。
誤解のないように付け加えると、私は決して「子どもを叱らないでください」といっているのではありません。むしろ人をむやみに殴ったり、道路に飛び出しそうになったりといったような他人の迷惑になること、とても危険なことなどについてはその場で厳しく叱ることが必要だと考えています。でも、人というものは叱ることにばかりにどうしても気をとられ、ほめるべきところを見落としがちになってしまうので、あえて「ほめてあげてください」とお願いしているのです。
私たち大人でもほめられれば嬉しいし、頑張ろうという気になるものです。ぜひ家族全員で<ほめる心構え>を身につけていきましょう。
では、子どもが一番イヤなことはなんだと思われますか?
叱られること?いいえ違います。子どもが一番イヤなことは「無視されること」なのです。ほめられもしなければ叱られもしない、全く見向きもされない、そんなことは大人でもたえられない、最悪の状況ですよね。
かすがようちえんではいつも「お子さんをほめてあげてください。」とお願いしています。
そういうと、お母さんの中には「うちの子は叱られるようなことばっかりして、ほめるところなんて全然ないんですよ。」とおっしゃる方がおられます。
でも、そんなことはありません。子どもたちは大人の何十倍ものスピードで成長しています。現に1年前のお子さんとは比較にならないくらい成長しておられるでしょう。 (それにひきかえ今の私たちは、1年前の私たちと比べてどれくらい成長したでしょう?)
ですから、ほめることはいくらでもあるはずです。それが「ない」ということには次の2つの原因が考えられます。
①ほめるべきところを、親がみつけられない。
②ほめてもらえないので、無視されることより、叱られてでも気を引くことのほうがましだと考え、わざと叱られるようなことをする。
とにかく子どもの行動を観察し、ほめることはないかいつも気をつけていると子どものすばらしい一面が見えてきます。それは感動的な発見です。
そしてほめる、叱るをバランスよく繰り返すことで子どものすばらしい人格が育っていくのです。
この<あたり前>が、子どもの教育では大切なキーワードだと私たちは考えています。子どもの脳は、6歳ごろまでは主に、見るもの・聞くもの・ふれるものをすべてそのまま写しとって成長する、プリント配線で進んで行きます。ですからこの幼児期はどんな環境で、つまり何をあたり前に育ったかが大切な成長の要因になります。
幼児期に思いやりの心があふれる環境(主に家庭、次に幼稚園)で育った子どもは思いやりの心のある子どもになります。殺伐とした、いさかいの絶えない環境で育った子どもは殺伐とした、陰険な子どもに育ちます。なぜなら、それが子どもの<あたり前>だからです。
始めにのべた、ことばの環境が、その子の話すことばを決めるように、身の回りの環境がその子の性格を決めてしまうのです。子どもにどんなあたり前を与えたいか、それをもう一度見直して見ましょう。
●例えば幼稚園では返事を、「ハーイ」ではなく、「ハイ」とはっきりすることをあたり前にしています。
この俳句は子どもたちの大好きなものの一つです。そして驚くほどのスピードで覚えていきます。とても大人がかなうものではありません。
大事なポイントは、俳句“を”覚えさせることではなく、俳句“で”大脳の発育-この場合は記憶力の発育-を助けることにあります。
生後新しい脳の配線ができ、ここにくりかえし電流が流れると、その配線がさらに強固なものになり、最後に反射的にできるようになります。つまり、楽しんで俳句をくりかえし暗誦しているうちに記憶力がどんどん養成されていくのです。
ところがここで注意していただきたい点があります。お子さんが俳句を暗誦しているのを見て、「さあ、いってごらん」などと強制したり、テストしたりすると、とたんにお子さんは俳句ぎらいになってしまいます。
漢字を教えているある幼稚園でのお話しです。
『・・・あるお母さんは、この子は天才ではないかと思い込んで、小学校の教科書をひっぱりだしてカードに書き、毎日帰ってくるのを待ちかまえて、これは何という字と、いわゆる古い頭の学校教育法を始めました。とたんに子供は漢字が嫌いになり、幼稚園でもそっぽを向くようになりました。すべてこうなのです。せっかく子供が漢字に興味をもち、好きになったのに、お母さんがその芽をつんでしまったのです。そればかりか、おやつでつったり、おどしたりしたので、逆に漢字恐怖症になって大変な後遺症を残してしまいました。』(幼児育て方ひとつ 田中茂樹氏著より)
目を閉じてください。そして手の中にレモンを握っていると想像してみてください。レモンの感触を感じてください。さあ、ナイフを持ってレモンを半分に切ります。そしてレモンを絞り、その果汁を口に入れてみてください。口の中につばが出てきました。
いかがでしょう。これは想像しただけで体が反応する身近な例です。脳が想像上のレモンに対してつばを出す命令を出したのです。ある情報をインプットすると脳が以前の情報によってできあがっているプログラムを使ってそのプログラムの通り体が反応するしくみになっているのです。
こんなの当たり前と思われるでしょう。しかしこのことがとても大事なことなのです。
子供に積極的なことばがけをすることは子供の頭の中に積極的な自分のイメージを作ります。そしてさらに積極的な行動を繰り返していくことになります。
反対に叱ってばっかりいたりしてマイナスのことばがけをすると子供はマイナスの自分のイメージを作り上げてしまうのです。
最近、スポーツ選手がイメージトレーニングをしているということを耳にします。これもこのヴィジュアリゼーションの力を利用したものなのです。
園でもルーティーンの前に少しの時間、気持ちを落ち着かせて目を閉じ、頭の中で想像する練習をしています。子供のうちの自由な想像力をさらに自由に使えるように練習しているのです。
ご存じのようにノミは2~3メートルを軽々ととびます。でも、そのサーカスのノミはといえばテーブルの上を20センチの高さでぴょんぴょんとんでいるだけなのです。しかも何十匹も。聞いているだけでカユくなるような話しですね。
別にそんな種類のノミがいるとか、突然変異で生まれてくるのではなくて、実は生まれたばかりのノミにすぐにガラスの器をかぶせるのだそうです。最初のうち、はねては頭をぶつけ、はねてはぶつけしています。そして2週間ほどその中に入れておくと器をはずしてももう器の高さ以上には飛び上がろうとしなくなってしまうのだそうです。
まるで目に見えない器がかぶさっているように。
さて、実は子どもたちにも同じことが起こっているのです。“しつけ”もこの働きを利用して身につけさせます。でも、子どもの“能力”については一歩まちがえるとマイナスの結果をうむ原因になってしまいます。
私たち人間の場合、このガラスの器にあたるものにことばがあります。いつも「お前はバカだ、何にもできない。」といわれ続けた子どもは必ず『バカで何にもできない』子どもになります。
「こうしなさい、ああしなさい。」と命令ばかりされていると何でも「これでいい?」と聞く、自信のない子どもになります。その子が生まれつきそうなのではなく、ことばによって、あるはずのない限界をつくられてしまうのです。
自分は今、子どもにどんな器をかぶせているか、もう一度点検してみましょう。
なぜ1秒なのか?その理由は先月号でくわしく書かせていただきましたのでもう一度お読みいただけたらと思います。今回はアンケートの中でご質問のあった点について説明させていただきます。
子どもに国旗や音楽記号などを教える意味は?
ルーティーンは子どもに知識をつめこむためのものではありません。今、この幼児期はいろんなものに興味を持ち、何でも吸収する能力が際立った時期です。このすばらしい時期にいろんなものごとに出会う機会をできるだけ多くつくってあげたい。子どもにとっては看板に書かれた“SONY”の文字を読むのも、電車の種類を覚えるのも、国旗や音楽記号を覚えるのもみんな同じこと―あそび―なのです。
全部覚えていないようですが。
ルーティーンでは10のものを与えて10を完全に覚えることは求めていません。それよりも子どもの興味を呼び起こし、集中力をきたえ、話しを聞く能力を引き出すことを大切にしています。そして1000与えて100残ればいいのです。
覚えているかどうかのテストもしませんし確認もしません。無理やりこっちを向かせるようなこともしません。それをしてしまうと急激に子どもは興味を失い、ルーティーンと聞いただけでそっぽを向くようになります。楽しくなくなるのです。
子どものさまざまな能力の基礎(これを脳の神経組織の構造化といいます)ができるこの大切な時期に幅広い基盤を作るこれがルーティーンの第1の目的なのです。
ルーティーンとよんでいる日課活動は主に脳の働きに目を向けた教育法です。
ルーティーンは朝の体操に始まって、名前(漢字)・国旗・読み方・動植物・音楽記号などをフラッシュカードで見せて進めていきます。さらにリズム・発声をくわえて毎日2回、15分間、反復して行います。大人が見ると「エッ」と戸惑うような活動です。というのも大人でも知らないようなものごとを、しかも1枚1秒という驚くようなスピードで進めていくからです。
実は、このスピードとリズムと間を置いた反復そしてほめることにこの教育法の特徴があるのです。
今までの常識では、子どもは大人より劣ったものだと考えられていたために、ゆっくりしかも簡単なことを教えようとしてきました。ところが脳の発達のしくみがあきらかになるにつれ、実は子どものうちは(6歳頃までは)ものごとを一瞬で記憶して行く特殊な時期だということがわかってきました。特に右脳の、イメージによる記憶の力を引き出し、強めていくためにはルーティーンのようなスピードとリズムと間を置いた反復がなければ効果は上がりません。ゆっくり見せることは理解を深めるのではなく、かえって子どもの興味を失わせ、飽きさせてしまうことになるのです。子どもには1秒で十分だからです。
そのスピードとリズムによる緊張感が教諭と子どもたちの間に信頼感を生み、子どもたちの集中力を育て、興味を持続させていくもとになるのです。
さて、<あそび>というとどんなイメージを持たれるでしょうか?屋外でかけ回っている姿でしょうか、それとも砂場で砂遊び、滑り台、ぶらんこ。ままごとあそび、ファミコン。いろいろありますね。
かすがようちえんでは、あそびとは、『子どもが興味を持って取り組むことすべて』だと考えています。
あそびを狭い意味で考えず、このように広い意味で考え、英語でも音楽でも砂場やぶらんこと同じように楽しんで取り組めるように準備すればそれは子どもにとっては十分あそびになります。文字・数でももっと幅広い知識についても同じです。
もちろん、園では外遊びも十分にしています。
(すぐに泥だらけになって服を汚してしまいますが、砂や水には可塑性があり、子どもの精神を安定させるためには心理学的に最も効果のある、大切な教材なのです。汚さないようにしなさいとは決しておっしゃらないでください。)
ですから、英語だからあそびじゃない、数字が出てきたらもう遊びじゃなくなる、すぐにそう決めつけてしまうのは正しくありません。
かすがようちえんは今後も、幅広いものごとに興味を持って取り組み、おもしろいと思って知能を高めて行けるような独自のカリキュラムを開発していきます。
毎日いつでも意識して、考え、決断して行動することの連続だったら私たちはどうなるでしょう?きっと疲れ果ててしまうに違いありません。無意識に、決断する必要なく行動する、習慣とはこんなに便利なものなのです。
私たちが“心構え”とよんでいる、考え方の習慣ももちろんこの習慣(くせ)なのです。なんにでも前向きに、積極的に取り組む心構えの子どもに育つ、かすがようちえんの目標のひとつです。
消極的な逃げ腰の、また依存心の強い、何でもできない、やってやってという子どもは、成長してもこの心構えが変わることなくしみついてしまっているのです。残念なことに心構えの基礎のほとんどが6才までにできあがります。
積極的な心構えを作る要因は“ことば”
園では先生のつかうことばに基準を設けています。とにかく積極的なことばを使うこと、プラスイメージのことばがけをすることなどです。
まわりの人のつかうことば、自分のつかうことばが心構えをつくる要因になります。私たちが積極的なことばを使うだけで子どもはあっというまに積極的に変わっていきます。その変わりようは驚くばかりです。まずみなさんが積極的になること、そして積極的なことばを使うこと。意識して使っていればしばらくのうちにそれが習慣になります。そのときにはみなさん自身の心構えが変わっていることでしょう。